d なぁに


 ――『女か? 陰にしか見えなかった。でも誰かいる』

 ――『足が揺れた』

 ――『あれはやばい』『気分が悪くなってきた』『これは本物』……など多数。


「ね? 多分、この辺りのことだと思うんだけど」


 ワシダが指さしたのは屋上の辺りだ。廃棄されて久しい建物なのか、壁が落ちて中の鉄筋が剥き出しになっている。

 千鳥は目を細めたり顔を引いてみたり、数秒戻してまた再生したりしていたが、「うーん、それっぽいような、見間違いと言えば見間違いのような」としっくりこない感じのようだ。


 その横で綾人は唇を舐めた。

 ……はっきり映っている。


 暗い夜空を背景にしているから判り辛いが、確かに鉄骨に引っかかるようにして人影が揺れていた。服が黒っぽくてシルエットも視えにくい。ただ、蒼白い顔だけはぽかりと浮いている。

 千鳥とワシダには視えないらしいので、恐らくは体質の者にしかわからないのだろう。流れるコメントのうち本当に視えている人がどの程度いるかは不明だが、それでもいつもより人数が多いということは、それほど力のあるものなのだ。


『ここで遺体が見つかったということですけど、今日は当然、何もありませんね。ま、あったら困るか』


『ワシダさん気づいて』『やばいやばい』といったコメントのなかには『なんもねーよ』『自称霊感』などという意見もあったが、圧倒的に少数派だ。

 ワシダがカメラごと辺りを見渡した拍子に人影もフレームアウトし、次にもとの場所を映したときには消えていた。ご丁寧に『いなくなった』と視聴者も実況してくれる。

 そのとき、かたん、と何かが動くような音がした。

 動画内のワシダも聞いたらしく足を止める。ゆっくりと振り返るが、深い闇と廃墟が広がっているだけだ。こういう場所で鳴る音の大抵は、風で何かが揺れたか、虫か、動物か、自分の足が何かを動かしたかの四択になる。


「これね、びっくりはするんだけどよくある音。特にここは壁が焼けて外とつながってるし、風も少しあったから、何か揺れたか転がったかだと思う」


 彼もそういう見解らしい。必要以上に恐れないその姿勢はどこか師匠を彷彿とさせた。

 耳を澄ますようにしばらく立ち止まっていたカメラが、また動きを再開する。


『なんの音だろ。誰かいますかー?』

『……ぁ……』

『……なんてね』


 ――なんだ、今の音。


「ちょっと待った」

「おうっ」


 綾人が制止をかけると同時に再びコメントが荒れていた。千鳥が咄嗟に動画を止めてくれたので、指を伸ばしてボリュームを上げ、数秒戻す。


『誰かいますかー?』

『なぁに』

『……なんてね』


 今度はしっかり聞こえたし、千鳥にもわかったようだ。


「うわっ、聞こえた。『なぁに』って言った!」

「ねー。それは俺も聞こえる。そのあと足音に紛れて『ねぇ』ってめっちゃ入ってるんだよ……」


 眉を下げたワシダの言葉通りだった。

 建物を出るために階段を降り始める彼の足音だけがざりざりと反響するなか、『ねぇ』と三度。動画のなかのワシダには一切聞こえていないようで、今回の感想などを述べると『ではまた次回』と動画を終えた。

 イヤホンを外した千鳥がスマホを返す。


「俺これ見てなかったや。この辺なんすね」

「そうそう。この動画のあとからなんだよね、今までになかったくらい『声が入ってる!』って指摘がくるようになったの。お祓いにでも行ったほうがいいんかね?」


 わざと明るく茶化しているのか、それとも言葉とは裏腹にそこまで気にしていないのか、彼は肩を竦めて苦笑した。



 そのとき、ぞっと空気が冷えた。

 頭上から凍えるような冷気が降ってくる。

 冷房にしては様子がおかしい。此岸の物理を伴う冷気というより、これは彼岸のものの存在感というほうが近かった。

 寒さに両腕をさすると、「綾?」と千鳥がこちらを向いた。



 その額に、ピンクのネイルの爪先が触れる。



「っ……」

「もー、怖いなら無理して見るなよ。なんか温かい飲み物でもとってこようか?」

「あ、あー、うん、大丈夫……」


 ――ちょっと待て。

 この女はワシダに憑いていたのではないのか。首から上はないはずではなかったのか。


 なぜ千鳥の腹とテーブルの間から顔を出しているのだ。

 なぜワシダではなく千鳥の近くにいる。


 こちらが彼女に興味を示したことに気づかれたとしか考えられなかった。綾人が迂闊に探りを入れたせいかもしれない。

 千鳥に移ってしまったらどうしよう。彼には見鬼などない。対処する方法もない。間宮家には父親も、母親も、ちいさな香波もいるのに。


 綾人のせいで。


「あ……あのっ!」

「おうなんだ綾、急に大きな声出して」


 途端にたまらなくなって声を上げると、千鳥はきょとんと首を傾げた。

 彼には視えない。気づいていない。その腹の辺りに、縊死した女がテーブルの下から顔を出していること。顔はそこにあるのに、体は天井からぶら下がって揺れていて、千鳥の額にいまにも爪先が触れそうなこと。

 こんなものが千鳥に視えなくて本当によかった。

 視えてくれるな。こんなもの。


「知り合いの知り合いにそういうの詳しい人がいるんですけど、この動画、見てもらった方がいいんじゃないかな。ほら、千鳥が言ったみたいにもしかしたらついてきちゃってるかもしれないし、今後も実況肝試しを続けるなら一回ちゃんとしといた方がいいですよ!」

「え? 綾そんな知り合いいたっけ?」

「あのーほら巽の知り合いでそういう人がいるみたいでさ!」


 すまん巽、許せ。


「八束トンネルは明日も明後日も八束トンネルだから、ちょっと俺いまから電話してみるんで、このあと行きませんか? いや俺ビビリだからもうこんなの見ちゃったらワシダさん一人にできないですマジで。俺の今夜の安眠のためにもどうか今夜は付き合って下さい」


 千鳥もワシダも目を白黒させていたが、二人の意見を聞いている心の余裕がなかった。

 スマホを取りだして速やかに電話帳を呼び出す。


 ワシダの顔の横で揺れる爪先を見た時から、もしかしたらこの人に頼ることになるのではないかと、そんな予感はしていたのだ。

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