b ああ、今すぐ帰りてぇ
綾人の住む幸丸大学周辺の地域は、近鉄で十分も移動すれば繁華街に出ることができる。
複数の私鉄や地下鉄の乗り換え地点になっており、商業施設や商店街が所狭しと犇めくうえ、プロ野球の試合結果によっては不幸なカーネル・サンダースが飛び込むことで有名な橋もあるから、観光客や外国人も多い。
大学入学を機に隣県から越してきた綾人は、この辺りがあまり得意でなかった。
まず、JRの線路しか通っていない故郷とのギャップで目が眩む。
次に、綾人は近鉄ユーザーだが、地下鉄やJRから乗り入れる友人と待ち合わせると集合場所を見つけるのに苦労するし、集合場所に辿りついたとしても人が多すぎて合流するのに時間がかかる。
そして、それを理由に避けていたため、越してきて半年が経つのに何がどこにあるのかいまだにわからない。
最後に、人が多いということは、『ヒトでないもの』との遭遇率も跳ね上がる。
以上である。
ワシダとの会食日は、綾人にも解りやすく地下鉄の改札口集合になった。先方が地下鉄から来るらしいからだ。
近鉄の改札を出て、真っ直ぐにエレベーターを上がれば地下鉄改札になる。綾人は無事に集合場所に到着して、千鳥とワシダを待っているところだ。
「綾、こんなとこいたの。帽子かぶってっから全然わかんなかった」
ぽん、と肩を叩かれる。
色々なものと目を合わせないようにキャップを深く被っていた綾人は、つばをちょっと上げながら千鳥を振り返った。
彼は通学で毎日この駅を利用しているため、すでに人やヒトでないものの多さにぐったりしている綾人と違ってけろっとしている。
「……ワシダさんってどんな人?」
「男性。黒シャツと黒のズボンと黒のリュック背負ってますって」
「全身黒ってけっこういるんだよなぁ……」
全身白や全身赤だとちょっとセンスを疑うが、全身黒となると一周回ってオシャレになるらしい。幸丸大学にもよく黒尽くめの男たちが闊歩している。
ツイッターのDMで連絡をとっているのか、千鳥はスマホを片手にきょろきょろと当たりを見渡した。言われた通りの格好をしていて、向こうも待ち合わせ相手を捜しているような男性を見つければいいわけだ。
「何歳くらい?」
「仕事してるみたいだから、年上なのは確実だな。ワシダさんって基本ソロだし、カメラ持ったまま動くから絶対に顔は映らないんだよ。ツイッター見る限りまともな人だと思うけど、正直よくわかんねぇ。変な人だったらごめん」
「そしたら逃げるだけよ」
女子大生三人組――その一人の肩にまとわりつく黒い靄。
土日にもスーツのサラリーマン――すれ違って揺らめく白い人影。
ベビーカーを押す家族連れ、身長の半分ほどもありそうな大きなリュックサックを背負った外国人観光客。
関西弁の渦のなかに混じる英語、中国語、聴き取れない囁き声。
……そういえば幽霊が国境を超えることってあるのかな。
例えばアメリカ人に憑いているアメリカ人の幽霊は、飛行機に乗って日本にくっついてきたりするのだろうか。そしてアメリカ人にくっついてまたアメリカに帰っていくのか。
取り留めもない疑問は今度師匠に聞いてみる抽斗に仕舞っておいて、再び辺りを見渡したところ、綾人はその人に気づいた。
黒いシャツを着て黒いリュックを背負って、何かを捜すように首を動かしている男性。
――そして、その頭上に浮く女。
おい、まさかアレじゃないだろうな。
口の端を引き攣らせながら千鳥を小突くと、そちらを向いて「お?」と首を傾げた。
「あの人っぽいな?」
「……やっぱあの人か……」
千鳥はじいっとその男性を見つめ始める。やがて視線に気づいた彼は、千鳥を見て、その隣の綾人も見て、スマホに目を落とすと、ぱっと表情を明るくさせてこちらに近づいてきた。そして男性と一緒に、女もついてくる。
背の高い彼の顔の横に裸足の爪先が揺れていた。
かなり鮮明だった。男の隣に浮いてさえいなければ見間違えそうなくらい実体に近い。
足の爪にピンクのネイルをしているのが判る。蒼い血管の浮いた足の甲。ジーンズを履いていて、上は花柄のシャツを着ていた。ぶらぶらと揺れる細い腕。薄目になって、視ていることを気取られないように観察してみると、首より上はぽかりと消失していて顔は解らない。
けれど、この位置にいるということは――縊死か。
すぐ横に血の気のない爪先が力なく垂れ下がっていることなど気づきもしない男性は、人懐っこい笑顔を浮かべて「こんばんは!」と手を振った。
「千鳥さんと綾ちゃん? 初めまして、ワシダです!」
――ああ、今すぐ帰りてえ……。
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