i 神隠しなんかじゃなかった

「説明するのも莫迦らしいんだけど。小動物の骨だと思う」

「なにが莫迦らしいんですか。それってつまり、水田さんのおじいさんは……」

「残念ながら騙されたんだろうね。骨の形状や数から見るに小型の鳥類だった。つまり『小鳥箱』だ。センスのないオヤジギャグレベルの洒落だよね」

「なっ…………」


 わなわな震える綾人の手のなかでアイスのカップがぐしゃっと音を立てた。

 中身はほとんど食べ終わっているので零れなかったが、巽がぎょっとしてティッシュに手を伸ばす。このローテーブルの天板の下にはラックが一段あって、そこにティッシュや空調のリモコンが収まっているのだ。


「ゆるっせん!!」

「手、汚れてるよ秋津くん」

「師匠むかつかないんですか!? 奥さんの病気に心を痛めた老人の優しさに付け込んだ悪戯ですよ! 悪逆非道っ、極悪非道っ、血も涙もない悪の権化の外道がやることですよ! 一生タンスの角に小指をぶつけ続ける呪いにかかってしまえ!!」

「きみはいざとなると語彙が面白いなァ」

「感心してる場合ですか!」


 呆気に取られた姉御が「秋津くんが怒っている……」と端的に実況する横で、師匠は天井を仰いで溜め息をつく。


「おじいさんは生前あれをお守りだと信じていた。おばあさんの病気はこの箱のせいじゃないし、おじいさんの事故にも恐らく関係ない。水田くんの家の女性陣や子どもは健在で、あの趣味の悪い小箱による悪影響は一つもなかった。あの箱は真実、お守りでしかなかったんだ。――そういうことにしておけばいい。彼らの知らなかった悪意まで詳らかにしたって良いことは何もない」

「でも……」

「こっちが騒ぎ立てたところでおじいさんに箱を渡した主が名乗り出るわけじゃない。死んだ人間は生き返らない。あんな下らない箱のことは忘れてしまいなさい」


 師匠の言っていることはわかる。

 おじいさんがお守りだと信じていた小箱の正体を、改めて誰かの悪戯だったと告げたところで、水田家の後味が悪くなるだけだ。本物のコトリバコではなく、その呪いの影響もなかったのなら、お守りだったということにしておいた方が悲しくない。

 わかるけれど。

 故意の悪意が確かにあったことを腹の底に沈めなければならない。その悪意の主が、もしかしたら今も別の人を傷つけているかもしれないとわかっても。


 むむむむ……と綾人が黙り込むと、アイスを持った高倉が戻ってきた。


「どうしました」

「……コトリバコが悪戯だったと聞いて秋津くん大激怒」


 肩を竦めた師匠の説明に、高倉は眉を下げる。


「秋津くんは優しいですね」

「普通ですよ! むかつくに決まってるでしょあんなの!」

「その普通が難しいこともあるんですよ。色々なものが視えてしまう人たちにとってはね」


 テーブルの上に置かれたアイスを手に取って、師匠はぺろりと蓋を開けた。

 冷凍庫から出てきたばかりでかちこちのそれを指で弾くと、不満そうにテーブルに戻して、「着替えてくる」と腰を上げる。


「坊ちゃん?」

「よく考えたらこの時期に三日間同じ服だったとか……。着替えた頃にはいいくらいに溶けてるだろ」


 ぺち、と師匠の指の背が綾人の頬を小突いた。

 頭を冷やせと諫められているのか、気にしすぎるなと慰められたのか、きっと両方なのだろう、師匠の華奢な手はそれから綾人の頭をひと撫でして離れていく。


 むかむかする胸の内の自己中心的な正義感と折り合いをつけようと格闘していた綾人は、師匠がそのときどんな目をしていたのか見ていなかった。

 あまりにもやわらかな、その目を。


 元通りの時間が流れ始めたお化け屋敷の書斎のなか、それぞれが再びアイスを手に取った。

 涼しげな着物の裾がスリッパを引く音を引き連れて遠ざかっていく。ぱた、と扉の前で足を止め、真鍮製のノブに手をかけ、今度は出ていく前に一度振り返った。


「……秋津くん」


 顔を上げる。

 師匠は薄い唇を開いて、高くも低くもない不思議な鈴のような声で、ちいさく囁いた。



「神隠しなんかじゃなかったよ」



 疲れたようなその表情が気にかかったが、綾人はうなずいた。

 うなずいて、笑みをつくった。


「おかえりなさい、師匠」


 師匠は応えない。

 そっと顎を引いて扉を開けると、静かに書斎をあとにした。

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