h こういう時の肚の座りようはピカイチ
書斎が水を打ったように静まり返る。
「…………聞いた?」と姉御。
「聞きました」と巽、
「俺も」これが綾人。
「どこかで扉が閉まりましたね」高倉は書斎の扉のほうに顔を向けた。
四人全員、同じ音を聞いたのは明らかだった。問題はその扉がどこのものかということ、出入りしたのは誰か――もっと言えば人間なのかそうでないのかということだ。
音の遠さからして書斎横の玄関でないことは確実だが、あとは解らない。二階で何かが悪さをしたのか、それとも一階の勝手口から誰かが入ってきたのか。
普通の家であれば侵入者を疑うだけで済みそうなものだが、この家はもう何が起きてもおかしくない。一瞬であらゆる可能性を考えて身を固くした綾人の横で、こういう時の肚の座りようはピカイチの元ヤンがぎゅっと剣呑な眼差しになった。
「……人間だったらブチ倒せば済むんだが」
「その場合は任せたぞ」
綾人が荒事に向いていないのは自分が一番よくわかっている。ひとまず一同アイスを置いて、書斎の扉のほうを見やった。
冷静な高倉はちょっと微笑んで立ち上がる。
「様子を見てきます。泥棒だったらいけないので、窓を開けて外に出られるようにしておいてください。巽くんの腕っぷしは正直信用してますけど、無茶せず全員逃げて」
姉御がぴくりと反応した。
「……待って、高倉さん」
白い指が高倉のスーツの裾を掴んだ。
制止された彼は戸惑ったように姉御を見下ろすが、言われた通りに動きを止める。呼吸を潜めて耳を澄ましてみると、足音が近づいてくるのがうっすらと聴こえた。
ぱた、ぱた、ぱた。
スリッパを引くような歩き方だ。歩幅は小さく、ややゆったりとしている。
書斎の扉の前に辿りつき、足を止めて、真鍮製のドアノブに手をかけ――溜めも感慨もないスピードで扉は開いた。
「……なんだい、全員揃ってアイスなんか食べて」
書斎の扉の向こうから現れたのは師匠だった。
三日前と同じ、下の襦袢が透けて涼しげな、透明に近い空色の薄物。いつもと変わらぬ端麗なお顔立ちで、絹のような黒髪が死神に狙われている右目を覆う。やや顔色が悪いようにも見えるが、怪我をしていたり体調を崩していたりする様子はない。
「し、師匠かぁ……」
「なに、悪い?」
「いいえ何も……」
――いや薄々、というか姉御が反応した辺りで、そうなんじゃないかと感じたけれど。
多分師匠だろう、師匠じゃなかったらそのほうが怖い、頼むから師匠であってくれとは思っていたものの、本当に師匠が帰ってきたのだと思うと一気に体の力が抜けた。巽も、姉御も、へなへなとソファに倒れ込む。
生きていた。
消息不明だの富士の樹海だのと深刻に構えていたこちらが呆気に取られるくらい、あっさり帰ってきた。
そんななか高倉は気丈にも師匠を叱責しはじめた。
「どこへ行っていたんですか! 心配したんですよ」
「悪かったよ」
素直に謝った師匠は、先程まで高倉が腰を下ろしていたソファに踏ん反り返る。
悪かったという態度では全然ないのだが。
「途中でスマホの充電が切れたんだ」
「公衆電話とかコンビニでバッテリーやケーブルを買うとか色々あったでしょうが! 今どきは電源のあるお店だって珍しくないし」
「電話番号なんていちいち覚えていないし、そんなことするより帰ったほうが早いじゃないか」
「大体あなた『ちょっと出てくる』って言って一体どこまで遠出していたんです! 開封したとかいう箱はどこに捨ててきたんですか」
「あ~~も~~ちょっとくらい休ませてよ……」
なにやら駄々をこねる子どものようなことを言いつつ、師匠はぐでっと背凭れに体を預けた。
浜に打ち上げられたくらげ、再び。
「……あ、俺アイス取ってきますね、師匠のぶん冷凍庫にあるんで」
「ああ、いいですよ秋津くん、私が行ってきます」
「是非ともそうしてくれたまえ」
しっしっ、と虫を払うような仕草で高倉を追い出そうとする師匠に、彼は黒サングラスの脇に青筋を浮かべるとその小ぶりな頭を力の限り引っ叩いた。
ばっちーん、とたいへん小気味よい音がする。
「いっ……」呻く師匠の声も掻き消すように、どかどか乱暴な音を立てて執事は書斎を出ていった。盛大な足音がキッチンのほうへと消えていく。
いまのは師匠が悪い。
姉御ですらやや呆れたような顔になって、頭の痛そうな溜め息を吐いた。
「……それで、結局どこまで行ってたの?」
「そのへんの適当な山に向かう途中で用事を思い出したからついでに東京に行ってきた」
「「とうきょおぉぉ!?」」
弟子二人は目を剥いて仰天したが、姉御はちょっぴり呆れ感を増しただけだった。
「箱は開けたのね?」
「開けたよ。骨が出てきた」
「……骨、って」
コトリバコを作るときに必要なのは、雌の家畜の血、それから子どもの体の一部。
さっと脳裡に思い起こされた師匠の説明に蒼褪めた綾人を一瞥し、師匠は二度、ゆっくりと瞬きをした。その視線から逃げることもできずに見つめ返すと、彼のほうがふいっと顔を背ける。
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