g 問題はまさにそれなんですよ
ばたばたと書斎を飛び出すと、綾人はキッチンへ向かった。吹き抜けになっている一階のロビーを横断し、屋敷の南側にあるティールームを横切ったその奥にある。
師匠のいない洋館は初めてではない。弟子二人は家主不在時にも訪問してよいとの寛大な許しを得ているので、講義が終わったあと直行して師匠の帰りを待ったことが何度もあるし、ここで一人、師匠や巽を待ったことだってある(その時はまだ玉緒を人間だと勘違いしていたから、一人だと思っていなかったのだが)。
なのに、師匠の行方がわからなくなっただけで、不気味に静まり返っているような気がした。
いつもと同じ間取りのはずなのに何かが違う――気がする。
本当にキッチンはティールームの奥だっただろうか。この廊下はこんなにも暗く、長かったか。壁紙はこんな柄だっただろうか。この壁にかかっている絵画の片隅に、黒い人影なんて描いてあったか。
いま、背後を冷たい何かが横切らなかったか。
綾人は廊下の途中で足を止めた。
ぱたたたた。
小さく、軽い足音だった。いまこの屋敷にいるメンバーのどれでもない。子どもか、それよりもっと小さな生き物。四つ足の動物ではなかった。壁の向こうから聞こえる。
壁一枚隔てた向こう側は二階へつながる階段が設えてあるが、綾人の立っている辺りだと、ちょうど階段下収納になっているはずだった。
綾人はこの屋敷において、実は人間ではなかったメイドの玉緒に揶揄われた以外では、正体不明の怪奇現象になど遭ったことがない。
ただ夜になると二階の一室に明かりがついて、そこから人影がじっと見下ろしているだけだ。その部屋は以前化粧室として使用されていて、いまは半ば物置で、恐らくは師匠の蒐集した趣味の悪い呪いのアイテムがぽんぽん放り込まれている。それだけだ。
この屋敷は、ほとんど無害なお化け屋敷だった。
――それなのに。
「……なんなんだよ……!」
半ば泣きそうになりながらキッチンへ辿り着くと、冷凍庫を開けてアイスを取り出す。抽斗からスプーンを人数分取って、わざと足音を立てながら再び廊下を歩いたが、ぱたたたた、という足音は隙を縫って綾人の耳に届いた。
ぱたたたた。……壁の向こう。――物置と化しているはずの階段下収納。
ぱたぱたぱた。……天井。――上はちょうど二階の廊下だ。
ぱた、ぱた、ぱた。……階段を下りている。
ティールームを抜けて、ロビーに戻る。ぱたたたた――背後をついてきている。
最後には駆け足になって書斎に飛びこみ、盛大な音をたてて扉を閉めた。あまりに勢いをつけすぎて庭に面した窓がびりびり震える。
きょとんと眼を丸くした三人の姿を見てようやく、足音が聞こえなくなった。
「……ここって何かいるんですか!?」
「ええまあ、山ほど」こともなげに高倉が答える。
そんなにあっさり言われてしまうと逆に怖くないではないか。
すると、馴染みのお化け屋敷でちょっと足音が聞こえたくらいで怯えている自分がなんだか馬鹿らしくなってきて、綾人は力の抜けた笑みを浮かべながらアイスをテーブルに置いた。
「どうかしたのか」
「途中から足音がついてきた……。子どもよりもっと小さいものだと思うけど」
「ああ、いますね。昔、坊ちゃんがうるさがって怒鳴ったので普段は物置に大人しくしているんですが、坊ちゃんがいない日中はよく出ますよ」
怒鳴って大人しくさせるという人間離れした上下関係の形成方法。さすが師匠だ、意味がわからない。
しかしその意味不明さがまた師匠らしいといえばらしいか。
「……そういえば俺、聞いたことなかったけど、高倉さんも視えるんですね?」
「いえいえ、私はたまに音が聴こえたり、余程のものの気配がわかったりする程度ですよ」
姉御がチョコミントのカップアイスを取ると、巽と綾人は高倉に促されて好きなものを選んだ。残った抹茶を高倉がとり、四人でまったりとアイスを口に運ぶ。
師匠のチョコレート味は冷凍庫の中に確保してある。
「そして、問題はまさにそれなんですよ、秋津くん」
「ハイ?」
「このお屋敷には先代の頃からずっと、色々なものが保管されています。普段は屋敷の主である坊ちゃんがいるので悪さをすることもないんですが、主の長らくの不在を悟って物置を抜けだすものがいないとは限らない。……下手をすれば本当に本物のお化け屋敷になってしまいます」
しみじみと抹茶アイスを食べる黒いサングラスにスーツ姿の長身男性。
今更ながらそのミスマッチさに笑いそうになったが、彼の話の内容は全く笑えない。つまりこれまでは師匠がいたおかげで無害なお化け屋敷だったのが、先程綾人に足音がつきまとったように、具体的な怪現象が起きかねないということだ。
姉御は憂い顔で息を吐く。
「捜しに行ってみる? しぃちゃんの行きそうな山ならリストアップできるよね、多分」
「近畿周辺なら心当たりはいくつかありますが……」
大阪ならどこそこ、周辺の京都や奈良ならあそこでは、とまた弟子たちは置き去りにされたので、綾人は巽に「なあ」と声をかけた。
「水田さん、その後どうなの。連絡はあった?」
「ああ、やっぱりおじいさんが誰から貰ったのかは不明のままだと。取ってあった年賀状の住所録なんかを見てみたけど、怪しげな人はおらんかったらしい」
「そーかぁ……」
護法なんていかにも宗教色の強そうなものを受け取って、疑いもなく庭に埋めてしまえるということは、それなりに信頼のおける人物だったのかもしれない。
本当にお守りならいいけれど、――もしも悪質な悪戯だったとしたら、なんだか嫌だ。
「贋物とかじゃないといいな……」
「なにがだよ」
「箱の中身。本当にお守りで護法だったらいいのにな。じゃないと、おばあさんの病気が良くなりますようにって願っていたおじいさんの気持ちに付け込んだみたいで、なんか、……嫌だよな」
巽は無言でぱちぱちと瞬いた。
やがてぎゅっと眉間に皺を寄せて、もともとの仏頂面をさらに険悪にする。
「秋津は人が
「はあ? なんだそれ」
「俺は、そんな嫌がらせを受けるおじいさんは、よっぽどどっかで恨みを買ったんだろうなと思ってた」
「……まあその可能性もあるけど。水田さんのおじいさんのこと、知らないし」
「だから人が善いっつってんだろ。そんけーする」
今度は綾人が瞬く番だった。
高校時代ケンカ負けなしのスーパーヤンキー、数々の武勇伝を持つという根も葉もない噂のあるこの巽大雅が、眼鏡ビビリの弟弟子を尊敬?
聞き間違いか何かかと疑いながらじろじろ兄弟子の顔を覗き込んでいると、嫌そうな顔でぎゅるんと逸らされた。
そのときだ。
バタン、と屋敷内のどこかで扉が閉まる音がした。
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