その八、ことりばこのなか

a 砂浜に打ち上げられたくらげ

 今日の招集をかけたのは珍しいことに、兄弟子の巽大雅だった。


 大学に入って初めての夏休みは呆気なく消化されつつある。文科省の定めた講義回数の規定だかなんだかで期待していたよりも期間は短かったが、山ほどの宿題も進学補習もなく、自分の好きなように使える時間がまる一ヶ月半あるというのは衝撃だった。

 大学生ともなれば彼女の一人や二人できて(いや二人は問題か)、アルバイトに精を出し、海にプールにBBQ――などという夢が所詮夢でしかないことには、綾人はわりと早い段階で気づいていた。


 事実、綾人の夏休みは手鏡の呪詛にはじまり、お盆の帰省を三日経て、心霊スポットであるお化け屋敷の中にあり、多分このままいけば心霊スポットに終わる。

 そんな八月との別れが見えてきた残暑の真っ最中、巽から不穏な連絡が入ったのである。


 曰く、バイト先の先輩が悩みごとを抱えているようなので、本日三時に師匠宅集合。


 ここで言う「悩みごと」とは、この面子なのだから当然オカルト関係だ。

 前回薬袋の持ち込んだ手鏡も、その前の理工学部が肝試しをした踏切も、碌なものではなかった。オカルトに碌も何もないのだが、とにかく綾人は怖かった。

 行きたくない気持ちとほんのちょっとの興味とが小一時間小競り合いをしたが、最終的には師匠宅の居心地の良さという第三勢力に軍配が上がり、綾人は集合時間よりもだいぶ早く陰鬱な洋館に到着した。


「こんにちは、秋津くん。どうぞ上がってください」

「お邪魔します。あ、これアイス。あとでみんなで食べましょ」

「いつもありがとう」


 迎えてくれた高倉にコンビニで買ったアイスを渡すと、綾人は書斎のドアを開けた。


「お疲れさまでーす」

「運動部みたいな挨拶やめてくれない……」


 だるそーぅに反応したのは、二人掛けのソファに体を横たえてぐったりしている師匠だ。

 華奢で色白の見た目通り師匠は暑さに弱く、日中は冷房を効かせた書斎でぴくりともしないことが多かった。夜になって心霊スポットに行こうとすると、ちょっと涼しいからか急にしゃっきり元気になる。


「元運動部ですもん。実はバスケ部」

「うわ」

「うわって何ですか、うわって」

「相容れない生き物だ……」

「バスケ部と相容れられなかったら元ヤンの巽なんて拒絶反応出るんじゃないですか……?」


 くてんとなりつつ憎まれ口を叩く師匠はなんだか可愛げがある。

 綾人はソファに腰かけて、しばらく冷房の風で体を冷やした。

 自宅アパートからここまでは自転車で数分だ。漕いでいる間は生温くも風を感じていたのだが、停車して呼び鈴を押して自転車を庭に停めて……としている間に汗が噴き出していた。

 電気代を気にして冷房温度を上げがちな自分のワンルームと違って、程よく冷えたこの屋敷は快適で気持ちいい。


「そんなバスケ部にパシリを命じる……」

「なんですか、今バスケ部は休憩中です」

「厨房から飲み物を取ってこい。ぼくはアイスティーね」

「おーぼーだー」


 パシられて向かった厨房では高倉が夕食の仕込みをしているところだった。

 すでに勝手知ったる師匠の家という状態なので、一声かけて冷蔵庫から水出しアイスティーを用意する。ついでに綾人も麦茶をもらうことにした。というか、まあ、師匠のパシリも多分綾人に水分を摂らせるための口実だったのだと思う。

 なにやら照れ臭いのでついつい憎まれ口を叩いてしまったが。


 書斎に戻ると先程まで仰向けだった師匠はうつ伏せになっていた。

 高倉がジーンズのポケットに突っ込んでくれた珪藻土のコースターを敷き、その上にグラスを載せる。

 からん、と響く氷の音が優雅だ。

 瀟洒な洋館の、本に包まれた涼しい書斎で、ふかふかのソファに腰かけて、美味しい麦茶をいただく。


 彼女と海に行く大学生は世の中たくさんいるけれど、こんなに優雅な夏を過ごす大学生はなかなかいないだろう――そう思うと悪くない。

 洩れなく恐怖体験付きだが、それはまあいておくとして。


「バイト先の先輩の相談ごとって何でしょうね?」

「さあ。詳しいことは聞いていないけど」


 綾人を使いっ走りにしておきながらアイスティーに手もつけず、師匠はうつ伏せのまま静かに薄い背中を上下させている。今日のお召し物は透明にも近いような空色の薄物で、透けて見える襦袢の白がなんとも涼しげだ。どことなく、水槽のなかをゆらゆら漂うくらげを彷彿とさせる。

 いや漂うというか、今は浜辺に打ち上げられて為すすべもなくくてっとしている状態か。


 手持無沙汰になったので、麦茶を飲みながらスマホを開いた。

 ニュースサイトを表示して見出しをぼんやり目で追う。芸能人の熱愛報道、全国各地で最高気温を更新、昨日発生した台風の進路、政治家の汚職疑惑、未解決の児童連続殺人事件から五年……。


 五年――もうそんなに経つか。


「……師匠」

「なに」

「神隠しってあるんです?」


 ソファの上のくらげがのそっと顔を上げて口を開いた。「あるんじゃないかな。知らないけど」

 神の存在について訊いたときと同じ答えだ。


「どうした、急に」

「五年前に大阪と和歌山で児童連続殺人事件が起きたの、知ってますか?」

「その頃はもうこっちにいたよ。憶えてる」


 おや、と綾人は首を傾げた。


「師匠ってどこの出身なんですか」

「実家は東京。祖父が現役を引退したあとこの屋敷に隠居して、師匠が祖父に弟子入りして、ぼくも死神の件があったから中学三年の頃に東京を出てこっちに来た」

「東京かぁ。師匠は都会の人だったんですね……」

「向こうもこっちもたいして変わらないよ。人は多いし、空気も汚い」


 大胆な悪口だ。しかし綾人の故郷に比べれば、鹿嶋市は人口が多いのも空気がやや埃っぽいのも確かなので否定はできない。


「十歳未満の児童が二人、行方不明になり遺体で発見された。死因と、遺体の指先が欠損していた点が一致したため連続殺人事件として扱われているが未解決」

「それです。そしてこの年には他にも三人の子どもが行方不明になっていて、今も見つかっていない」

「時期が時期だし、五人全員同じ犯人の手にかかったと考えるのが妥当だろうね。遺体が見つかっていないだけで。……それで神隠しなんて言い出したの?」


 事件が起きたのは綾人が中学二年生の頃だった。

 夏から年末にかけて立て続けに五人が行方不明になり、うち二人は遺体で発見された。全員が十歳未満ということで、綾人の弟妹はぎりぎり年齢を外れていたが、町内会でもかなり警戒態勢が敷かれていた憶えがある。


「神隠しだと考えることで気が楽になるならそれでいいさ」


 師匠はうっそりと零した。



「遺体が見つかるのも、見つからないのも、どっちも辛い」



 他人事のようでいてどこか祈りを孕んだような声音にどきりとする。


 綾人は師匠の師匠を知らない。本人に会ったことがないし、師匠たちは彼女について常に過去形で語ったが、はっきり死んだと聞いたわけでもなかった。


 ――もしかして。

 ちらりと師匠を窺ってみたものの、彼は再び砂浜に打ち上げられたくらげのごとく、ソファと一体化してしまっていた。

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