g ちかよらないようにしなさい

 このちいさな手を振り払ってもいいものか――助けを求めて師匠を見るが眉を顰めているし、姉御は困ったようにイカ焼きを齧っている。

 屋台で一緒に少女を拾った巽は、顎に手をやって剣呑な表情になった。


「……“やえ”?」


 巽の声に、少女が顔を上げる。

 その仕草はまさにただの女の子だ。千鳥の妹の香波ちゃんと大差ないように見えるし、実際同じくらいの年のはず。


「やえ、なのか」


 再度そう訊ねた巽に、師匠がさすがに顔色を変えた。


「まさか。いや、それなら……藤香には光の塊に視えるというのも、無理はないか」

「さすがに神さまにお会いした経験は少ないから、こうだとはっきり言うことはできないのよね。そうかもしれない。……巽くん、どうしてそう思ったの」


 なおもきょとんとしたままりんご飴を舐める少女から視線を逸らし、巽は金髪頭を掻きまわす。


「いや。単に、やえの話をしていた時にひょこっと現れたんで……」


 やえ。このひさお川の底に沈んだ人柱の少女。――本当にこの女の子がそうだとすると、彼女は神だということになってしまう。

 日本には色々な神さまがいる。

 日本神話に端を発する神道系の神々。神仏習合の時代には、仏教の仏も神さまが姿を変えたものとして普く受け入れられた。石や木などの自然物にも神が宿り、米粒一つまで神だともいう。その総数、八百万。

 このなかの大半は元々は神ではないのだ、と師匠は教えてくれた。


 生まれたときから神だったのは日本神話に名のあるものだけだ。そしてそのレベルの神々ともなると、師匠や姉御にさえ視えるわけがない。

 それ以外の神々は、元々そこに在ったものに人間が「神」という性質を与え、祀り、信心によって力を与えたいわば人工的な神に過ぎないのだ。

 やえは後者だ。


 目隠しをされ、手足を拘束され、川の底に沈んだ。こんなにもちいさな少女がひとりぼっち、祀られて神になり、今もなおひさお川を守る。

 何百年も、ひとりで。


 それは一体、どれほど途方もない孤独だろう。


 綾人は少女の隣にしゃがみこんだ。

 つないだ手は小さく、ほっそりとしている。姉御が光の塊だと言おうと、神ではないかという仮説が出ても、綾人にはまだ普通の女の子に見えた。


「りんご飴、おいしい?」


 にこ、と笑って肯く。

 無邪気な仕草だったが、目元がどこか怜悧なためもあってアンバランスだ。


「何か食べたいもの、ほかにある?」


「…………」少女の視線は巽が持ったままのフライドポテトを向いた。

 ポテトをリクエストしたのは師匠だったが、本人は目を閉じて肩を竦めたので、巽も彼女の前にしゃがんで渡してやった。

 綾人の手を放してフライドポテトを一本摘まみ、口元へ運ぶ。何百年も昔の女の子にしては、現代の食べ物の食べ方を知っている。


「……もしかして、毎年来てた?」


 にこ。確信犯的な笑みだ。


「やえ様のためのお祭りだもんな。そりゃ、本人が来てもおかしくないよなぁ」


 その通り、とでも言いたげに小首を傾げた少女――やえは、もう一本ポテトをつまむと、満足したように笑ってきびすを返した。

「あ」と零したのは綾人だったか、巽だったか。



 四人の目の前で、やえの後ろ姿は薄闇に溶けるようにして、あっさりと消えた。



 誰かがはっと思い出したかのように喧騒が蘇る。

 気づけばすっかり日は落ちていた。もうじき花火の打ち上げが始まる時間だが、綾人たちは息を潜めて、やえの消えた場所を見つめたままぴくりとも動かなかった。

 くすんだ浴衣の後ろ姿が今にも戻ってくるのではないかと思うと、動けなかった。


「……寂しかったんですかね?」


 手のなかにはまだ、やえの体温が残っている。

 寂しい女の子が見せるには老獪でいたずらな笑みだったけれど、一人で死んでいった彼女のことを思うとあながち間違いではないような気がした。

 師匠の「さあ……」という囁きに振り返ると、彼は巽の持つポテトを白い指先で掴んだところだった。


「ヒトでないものの行動にこちら側が理由をつけて解釈するのは簡単だけど、あまり下手に同情すると縁ができる。そういうことは、考えないほうがいいと思うよ」


 綾人は睫毛を伏せた。

 子どもの頃、事故に遭った猫の死体を見てかわいそうだと泣いた綾人を、父がやんわりと諫めたことを思い出す。――かわいそうだと思えば、猫の無念がついてくるからね。自分の猫でもないのに、必要以上に気持ちを傾けてはいけないよ。

 当時はなんて冷たいことを言うのかと衝撃を受けていたが、父の教えは間違っていなかったわけだ。きっと、師匠ほど真に迫った知識ではないだろうけれど。


「まあ、日本の神さまは祟るとよく言うし、あまり気安く関わらないほうがいいかもね。ね、しぃちゃん」


「そうだね」師匠は色素の薄い左眼に剣呑ないろを灯した。


「……アレは、よくない感じがする」


 どういうことか訊ねようとした綾人の声をかき消すように、どん、と遠くで花火が上がる。わあっと歓声が上がり、続けざまに夜空は明るく輝いた。

 結局こんな片隅から眺めることになってしまったが、堤防ののり面にいるからか意外とよく見える。


 腹の底に響く轟音は、死神の足音にも似ていた。


 屋台の明かりで橙色にひかる師匠の頬が白く浮いて見える。

 彼は花火をよく見ようと爪先で立つ姉御の横顔を見下ろし、そして弟子二人にだけ判るように、薄い唇をゆっくりと動かした。



「ちかよらないようにしなさい」




 ――師匠のこの予感が現実のものとなるのは、もっとずっと後になってからのことだ。

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