e やえという女の子
店主がこれだけいかつくて、しかも(綾人たちには視えないが、恐らく)ヒトでないものが並んでいるようじゃ、普通の人は避けるだろう。
相変わらず綾人にはここだけ空白地帯に見えているのだが、姉御と師匠は何かを避けるようにひょいひょいと蛇行して歩いた。
「じゃあ三つお願いできますか」
師匠が右手の指を三本立てると、強面の店主は「はいよ」とぶっきら棒にうなずく。
三つなのは多分、比較的小食なほうの姉御が一パック丸々食べないからなのだろう。お祭りを嫌がりつつも気前よく奢ってくれる師匠に弟子二人で手を合わせた。しかし、一体どこからそんなお金が出てくるのかは甚だ謎である。
「ししょー、ひさお川花火もお祭りが転じたもの、っていうことは、もともとはさっき言ってたような鎮魂とか疫病退散のお祭りだったんですか?」
「そう。話は昔むかしに遡る」
店主は無言で師匠の語りを聞きながら、熱した鉄板の上でお肉や野菜を焼き始めた。
「……ひと夏の大雨でひさお川にかかっていた橋が流されて、人々は新しく橋を架けることになった。だがこれがどうもうまくいかなかったそうだ。架ける端から落雷や洪水でだめになる。やがては事故や病気が相次ぎ、工事するにも苦労するようになったところで、地元の人々は神の怒りだと恐れを抱き始めた」
漣のように広がる周囲の喧騒を掻き分けて、師匠の高くもなく低くもない、鈴のような声音がぽつぽつと転がってゆく。
「そして人柱を一人、立てることにした。近所でも評判の美少女だった、やえという女の子だ。間違っても生きて帰らないよう、目隠しをされ、手足を縛られ、やえは神の怒りに荒れ狂う夜のひさお川に突き落とされた。――その次の朝から、ひさお川の流れは今のように穏やかになり、橋も無事かけられたという」
そしてそのやえの魂を祀るために、橋の周辺では毎年夏、祭りが行われた。
もともとはささやかな鎮魂の祭りだったという。近所の神社が主催し、皆でやえやその家族への感謝を込めてお供えをし、神楽を奉納する。やがて奉納花火も行われるようになった。直接やえを知る者がいなくなっても、川の怒りを鎮めた彼女への感謝は消えない。肉体を神に捧げられたとしてもその存在は死ななかった。
時代が流れて、第二次世界大戦中には一度途絶えた。
そして何度も修繕されたり架け直されたりした橋がついに鉄筋コンクリート製になった頃を境に、地元の有志団体によって祭りが復活すると、段々と規模が大きくなっていく。やえのための鎮魂祭はいつの間にか姿を変え、今の全国的に有名な花火大会へとなりはてた。
「……という顛末だね。一応、花火の前には神事も行われているみたいだけど、我々一般客はもう目にすることはない」
「へえ……。いいんだか悪いんだかわかりませんね」
浅学無知な弟子にはその程度の感想しか言えなかった。
やえが突き落とされた辺りの師匠の語り口はほんのちょっと怖かったけれど、こうして賑やかな花火大会となっている現在の状況を見れば、そこまで恐れるようなものでもない。
「地元の若者はほとんどが知らん話さ」いつの間にか焼きそば三パック用意し終わっていた店主に、師匠が代金を渡し、姉御が嬉しそうに袋を受け取る。
「俺らみたいなのはまだ、じいさんばあさんが毎年やえ様のためにっつってお供えしてた世代だがな」
「神を信じますか?」珍しく師匠がそんな無駄口を叩いた。
「どうだろうな。俺には見えないからな」店主はシニカルに笑ったが、馬鹿らしいと一笑することもなかった。
そんな男二人のそばで、袋を覗きこんだ姉御が「おいしそう」と呑気に笑う。
ふ、と涼しい風が吹き抜けて、真夏の湿気を含んだ重い空気を一舐めした。
姉御が浄化したのだ。ヒトならざるものどもが集まるこの店の周囲一帯。
おかげで、先程まではこちらを一顧だにしなかった周囲の人々の視線が集まり、「塩焼きそばだって」などという声も聞こえるようになる。
店主が目を丸くした。
その視線を笑顔で封じて、姉御は「行こう、しぃちゃん」と師匠の腕をとる。
年上の二人がそのまま歩きだしてしまったので、致し方なく弟子二人のほうで、何かが起きたことを察している勘のいい店主にぺこりと頭を下げておいた。
「扨て、それじゃ別行動しよう。弟子二人はお使い、ぼくらは座って焼きそばを食べられる場所探し」
巾着から取り出した財布をぽんと投げ渡される。難なくキャッチした巽に、師匠は次々とおつかいリストを言いつけた。どこまで覚えているか怪しいものだ。
やや疲労したような表情の姉御を連れて、師匠の後ろ姿が人混みに消えていく。
いか焼き、フライドポテト、牛串、きゅうりの一本漬け、飲み物、チョコバナナ。幸い師匠は溶けるようなものはリクエストしなかったので、冷たいものから買い集めていくとしよう。問題は二人だけで全てを持てるかどうかだ。
手近にペットボトルの飲み物を割高に売っている店があったので、まずはその列に並んだ。
人は多いが、屋台の数が多くて回転も速いため、そこまで待つことなくお茶とジュースを購入できた。綾人のメッセンジャーバッグにぎゅぎゅっと詰め込み、次はきゅうりを目指す。
「人柱か」
思い出したように巽がぽつりと呟いた。
「やえは人を恨みはしなかったんだろうか」
独白のようだったから綾人は言葉を返さなかった。その代わり、そっと後ろを振り返る。
様々な格好をした家族連れや恋人同士、男女数名のグループや、男子高校生の団体、綾人たちと同じ年くらいの女子のあつまり、老夫婦。
このなかで一体何人が、綾人たちも先程教えられたばかりのやえの存在を、このひさお川花火大会のルーツを知っているのだろう。
やえの肉体は滅んだ。目隠しをされ、手足を拘束され、荒れ狂う夜のひさお川に揉まれて、動かなくなって、きっと川底に沈んだ。亡骸は魚や虫に食い荒らされ、水中の微生物によって分解されただろう。骨ももはや残ってはいまい。
それでも彼女は祀られて神になり、人々の記憶のなかで何百年も生き永らえている。
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