d 大盛況だね。別の意味で
ひさお川花火大会は全国的にも名の知れた花火大会だ。
隣県出身の綾人は来たことこそないものの、ニュースや中継で毎年目にしている。
交通規制はすでに始まっているため、高倉は会場となるひさお川河川敷に近い駅のロータリーに車を回して一行を下ろした。彼は一度屋敷に帰り、また迎えに来てくれるらしい。至れり尽くせりである。
四人ともこの花火大会は初めてだったが、幸い人の流れが多いため、浴衣姿の少女二人のあとを追って無事会場入りすることができた。――とはいっても、チケットをとる必要のある観覧席でなく、一般向けの無料会場だ。
「うわぁ……」
感嘆とも辟易ともとれる声でつぶやき、姉御は目を丸くした。「人がたくさんいるね」至極当たり前のことだがそう言うしかなかったのだろう。
河川敷にずらりと並ぶ屋台にはすでに列ができている。その緯糸を縫うように、花火のよく見える場所を求めてか、更なる屋台を求めてか、涼しそうな格好の老若男女が経糸のごとく蠢いていた。人々のさざめきが熱波となって額を打ち、無理やりにでも気分を高揚させてくる。
一方、師匠は浴衣の袖口に両腕を突っ込むいつものポーズで、げんなりと口を開いた。
「なんでわざわざ夏の盛りにわざわざ群衆が密集してわざわざ温度を上げるんだか、三回生まれ変わっても理解できそうにない……」
「四回目には理解できそうっすか?」
「できていたらいいね。その時には日本がどうなっていることだかわかったもんじゃないけどさ」
毒にも薬にもならないやりとりを挟みつつ、綾人たちはひとまず人の波に乗って、河川敷を上流へと遡っていくことにした。どうやらそちらの方が花火がよく見えるらしい。
姉御はぽかんと口を開けたまま、まるでお上りさんのように辺りをきょろきょろと見渡している。
「ねえ、しぃちゃん見て、亀すくいだって! すごいね。射的や金魚すくいなんて屋台も初めて見たのに、亀だよ亀!」
「はいはいすごいねぇ。やらないからね」
「高倉さんに頼んで探せば、蔵から水槽くらい出てくるかしら……」
「聞いてるか、この田舎娘? やらないからね」
言葉のイントネーションや一人暮らしをしているところからして姉御がこの辺りの出身でないことは察していたが、一体どれほどの田舎娘なのか気になるところだ。
とはいえ隣の金髪頭も、姉御と同じくらい物珍しそうにきょろきょろしているが。
巽は確か四国の生まれだったな、とプロフィールを反芻したところで、前を歩いていた姉御が体勢を崩して綾人の胸元に後頭部をぶつけた。どうやらすれ違った女性に肩が触れたらしい。
「大丈夫ですか、姉御……」
こともなげに歩き去っていく女性の後ろ姿を振り返ってぎくりとした。
背中にべったりと、幼児ほどの大きさの黒い影がまとわりついていたのだ。
ざわ、とそそけ立つその影は意思もなく揺らめいている。害意のあるものではないが、あんなものがずっと背中にへばりついていたら体がしんどくて仕方ないに違いない。
思わず目を逸らしてしまったが、いかんいかんと視線をもとに戻すとすでに視えなくなっていた。人混みに紛れたのか霧散したのか、単にそういう視え方の性質だったのか判らない。
ただし、気づいてしまった、という自覚は意識に大きな作用を齎した。
先程までは気にもとめなかった白い人影のようなもの。中空を漂う黒いもやもやは、不特定多数の負の感情の集まり。人混みのなかを彷徨う下半身。いまのところ身構えるほどの大物はいなさそうだが、輪郭の曖昧な、ぼんやりとした形ないモノがそこらじゅうに浮いていることに綾人は気づいてしまった。
――やばい。けっこういる。
綾人が強張ったことには気づいていない姉御が「ごめんねぇ」と振り返る。
「ありがとう、秋津くん、もう大丈夫。人混みを嫌って避けるあまり、何年住んでも人混みのなかをうまく歩く技術が向上しなくって」
「いえ……。いえあのそれより……けっこういるんですね、こういうとこって」
あらぬ方角――もちろんそういうものが視界に入らないほうだ――を向いて口元を引き攣らせる綾人に、師匠が首だけ振り返って口角を上げた。
「おや、秋津くんは初めてかい、お祭りの会場でこういうのを視るのは。――日の浅い巽はまあ言わずもがなだけど」
「地元の祭りは町内会規模の小さいやつだったんで……。会場も神社だったし」
「成る程ねぇ」
体勢を立て直した姉御は、師匠の浴衣の袂を容赦なくぎゅっと掴んだ。
遠慮がちにとか恐る恐るとかそういったふうは一切なく、迷子にならないことを最優先に、浴衣に皺がつくのも構わないという様子だ。師匠はもの言いたげな顔になってその手を見下ろすが、姉御がはぐれるリスクと天秤にかけて何も言わないことにしたようだった。
師匠を先頭にずかずかと人混みのなかに突入する年上二人の後ろで、年下二人はすでに帰りたい気持ちでいっぱいになっていた。
油断すると目に入るのである。
それ単体で浮遊する靄や下半身だけの人影なんかはまだ視界に無毒だが、生きている人間にしがみついている小さな何かだとか、執拗に後ろをついて回る黒いものは、あまりよくない感じがして気分が塞ぐ。
「そもそも『祭』という漢字は、右手で肉を持って神に供える様子を表したものだとされている。そしてその意味通り、祭りとは本来、神に供物を捧げて祈る儀式だった。お祭りなんていうと最近じゃ賑やかなイベントのイメージになっているがそもそもの由来は祭祀だからね」
「へー。言われてみると確かにそうですよね」
「でも、桜祭りとか雪祭りとか、最近は儀式なんて全く関係ない、festivalの意味合いのほうが強いイベントが多くなってきてるよね。……ね、あそこ並ぼ」
姉御が白い人差し指で示す先には、塩焼きそばの屋台があった。
並ぼう、とは言ったものの列は一切できていない。生きているほうの人間は並んでいないが、さすがに弟子二人にもわかった。姉御には、並んでいる人が視えているのだ。
そして「大盛況だね。別の意味で」とつぶやいた師匠にも。
綾人と巽には、よっぽど不味いか何かの理由で干されているようにしか見えないのだが。
「――で、日本では古来より、春夏秋冬それぞれに祈りを込めた祭祀が行われた。とりわけ夏には、疫病退散、厄除け、
「よく知ってんな」
声をかけてきたのは、生きた人間が並んでいない塩焼きそば屋台の店主だ。
つるっとしたスキンヘッド、神社の狛犬みたいな険しい顔つき、がっちりとした重そうな体。鹿嶋市やその周辺地域はお世辞にも「治安がよくて上品」とはいえない土地柄で、いかつい見た目の人なんて珍しくもないのだが、それでもさすがに避けられてもおかしくないほどの貫禄と威圧感だった。
しかし師匠は風に吹かれる柳のごとく、そのオーラを受け流している。
「昔、調べたことがありまして。この辺りにお住まいなんですか?」
「ああ、すぐそこだよ。……焼きそば食うかい。今日はどうも人は来そうにねぇや」
……でしょうね。いろんな意味で。
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