c 生きてりゃ色々あるもんだ

 一足先に皿を空にした師匠が「先に浴衣を出してくる」と書斎を出て行くと、それを見送った姉御と高倉が顔を見合わせた。


「……びっくりだったね」

「そうですね。もう随分経ちますし、少しずつ大丈夫になってきているんでしょう」


 こてん、と首を傾げた弟子二人に、姉御は微笑した。


「しぃちゃんが、お師匠さんの浴衣を着てもいいよ、って言ってくれたのがちょっと意外だったの。お師匠さんのお話はよく聴かせてくれるけれど、彼女のものには手をつけたくないみたいだったから」

「私がフランスに発つ前より、ずいぶんとお元気になられましたね。毎日楽しそうで何よりです」

「そう、そうなの。楽しそーぅに意地悪するのよ」


 お師匠さん、つまり師匠の師匠は彼の実姉だ。

 綾人たちは彼女に会ったことがないし、写真なども見たことがない。詳しいことは触れずにいるのだが、師匠はその人のことを語るとき、いつも過去形を使った。

 姉御や高倉の話の断片からつないで、師匠の師匠が、此岸の人ではないのだろうと推察はできる。


 姉御はいつだったか師匠に向かって「シスコン」とぼやいていた。

 がいつのことだったのかまでは推測しかねるが、お師匠さんを喪った師匠の落ち込みようは相当だったのだろう……。


「……師匠にも色々あるんですねぇ」


 つい先日も、想像の範疇を超えた彼の身上の一部が明らかになったばかり。

 弟子に意地悪することで師匠が元気になるというのなら、甘んじて振り回されるのも悪くないか。

 なんとなく穏やかな気持ちでそんなことを考えつつ、姉御の料理の師でもあるという高倉のフルーツタルトの、最後の一かけらを口に放り込む。タルト生地のさくさく加減が絶妙だ。お店に並んでいてもおかしくない出来である。


「ふふ。そうね」目を伏せた姉御の睫毛が、窓から差し込む日の光にきらめいた。

 どこか憂いを帯びた横顔だった。


「色々あるのよね。みんな」




 姉御が二階に籠もって浴衣を着たり髪の毛を整えたりする間に、師匠も自分の浴衣に着替えて書斎に戻ってきた。

 女性の身支度には時間がかかるものだ。綾人は妹がいるので知っている。妹の沙彩は女性というにはまだ子どもだが、中学生になった頃から外見を気にするようになり、前髪のセットに納得がいかないと待ち合わせに遅刻しかける姿をよく見ていた。


 弟子二人が対戦を再開し、師匠が分厚い本を広げてしばらく、書斎の扉がノックされる。

 高倉が顔を覗かせると、師匠はぶっきら棒に「なに」と言い捨てた。


「藤香ちゃんの準備ができたようですよ。会場の近くまでは送りますから、準備してください」


 師匠は財布やスマホを入れた巾着袋を引っ提げて立ち上がる。綾人と巽があとを追うと、溜め息交じりにつぶやいているのが聞こえてきた。


「……一体どういう心境の変化だか」

「いいじゃないですか。藤香ちゃんが自分から花火大会に行きたいと思えるようになったなんて大進歩ですよ」

「まァ、ようやく人間らしくなってきたかな……」


 人間らしく?

 師匠の言葉選びはたまに独特だ。姉御は人間以外の何ものでもないと思うが、多分そういう意味ではないのだろう。

 自殺があったような場所では、生きていたくない気持ちの強すぎる姉御は容易に引っ張られてしまうのだと、師匠は以前語った。


「……姉御にも色々あるんだなぁ」


 隣の巽を見上げると、寡黙な元ヤンは神妙にうなずく。


「生きてりゃ色々あるもんだ」

「……まあ、生きてないのにも色々あるんだろうけど」

「師匠ふうに言うと、生きていると生きていないも人間側の価値観だからな。向こうのやつらにとっては自分たちこそが生きているものだ」

「うーん、じゃあ、生きてても死んでてもみんな色々あるってことだな」

「そういうこと……なのか……?」


 弟子二人の会話を盗み聞きしていた師匠が「なんだあの頭の悪そうな結論は」とこっそり頭を抱えると、高倉は「真理ですがね」と笑いを噛み殺した。

 やがて二階からぱたぱたと軽やかな足音が近づいてくる。


「お待たせ! ごめんね、時間かかって」


 お、と男性陣四人で揃って大階段の上を見上げると、濃紺地に白抜きで麻の葉模様が配された浴衣の姉御が、すこし慌てた様子で下りてきていた。

 普段下ろしている髪の毛は、今日は後頭部でお団子にしてある。師匠とは違って拳一つ分抜かれたうなじが色っぽいが、その品のある立ち姿や柔らかい表情のおかげで清楚さのほうが勝った。きっぱりとした紅色の帯はきれいな文庫。流行りのきらきらした浴衣ではないが、質素さは逆に素材のよさを引き立ててくれる。


「姉御めっちゃ似合ってます!」


 ぐっと拳を握ると、姉御はにこりと笑った。

 隣の巽は褒め言葉も出てこないらしく、ガラのよくない相手には間違いなく喧嘩を売られること間違いなしの凶悪な目つきで――恐らくは照れと緊張――姉御を見つめている。

 一方特に感慨も湧かないらしい師匠は平坦な表情だ。

 だがごく自然な仕草で姉御へと手を差し述べて、それに応えた彼女を玄関まで誘導していく。


「履物は新品ですからご安心くださいね」


 師匠のエスコートで下駄に足先を差し込んだ姉御が、高倉の言葉に顔を上げた。


「新品って、どうして?」

「昔、お嬢さまにと東京から送られてきたものなんですが、結局履かず終いだったんですよね」


 師匠が左眼を細める。「師匠は外では着物も浴衣も着なかったからね……」

 彼は大学に行く以外ではショッピングだろうが山中の心霊スポットだろうが着流し姿だ。だからといって普通の服を持っていないわけではないらしく、ごくまれに構内で見かけるときは洋服に白衣を引っ掛けている。


 その姉君というからには着物なのかと勝手に考えていたが、まあさすがに心霊スポットに着物姿の女性が出没するとなると、師匠の師匠が逆に幽霊扱いされかねないか。

 写真などを見せてもらったことはないが、きっと美人だったのだろう。

 だってこの師匠の姉である。


 その後、表に回されていたマークXに乗りこみ、一行は花火大会の会場へと向かった。

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