b 花火を見にいこう!
「しぃちゃん、花火を見に行こう!」
ある日、姉御がこんなことを言いだした。
相も変わらず夏休み真っ盛り、蝉の大合唱の迷宮を攻略した先にある古びた西洋館、その書斎でのことである。
師匠は基本的に綾人と巽に対してはオカルト的無理難題を吹っ掛けてくる、傍若無人で人でなしで血も涙もない鬼だが、唯一、彼の相方とも呼ぶべき姉御――湊ひなた二十歳――に対しては、甘い。
胃袋を掴まれているゆえか、砂糖菓子にガムシロップを三つかけたくらい、甘い。
とはいえ男女の仲ではないらしい、というのは本人の談。
その出会いやここに至るまでの経緯は知らないが、姉御のその神に勝るとも劣らぬ強い見鬼を危惧した師匠が、わざわざ姉御に新しい名前を贈るほどの関係だ。互いを互いの相方として認識している、といった見方がいちばん自然なように思う。
「…………ひさお川花火のこと?」
ソファにぐったりと倒れ込んで、扇子でぱたぱたと風を送っていた師匠が面倒くさそうに訊ねると、その足元に正座してスマホを操っていた姉御は「うん」とうなずく。
綾人と巽はローテーブルを挟んで向かい側のソファに胡坐をかき、先日発売されたばかりのゲームで熱いバトルを繰り広げているところだ。
「それ、前に高倉に行ってきたらって言われて、人混みが嫌だっておまえが断ったんじゃないか」
「二年も前の話! せっかく弟子が二人も増えたんだから、たまには心霊スポット以外のところにも行かなくちゃ」
「記憶を改竄するな、去年もだ。……三人で行ってくれば。車は高倉に出させて」
「田舎ならいざ知らず、都会の花火大会は公共交通機関で行かなくちゃだめなのよ、しぃちゃん」
「ますます嫌だね」
高倉、というのはこのお屋敷にお勤めする唯一の使用人さんである。
長身の巽よりなお背が高く常にスーツ姿、黒いサングラスとオールバックを片時も崩さない、師匠と同じくらい謎の多い男の人だ。だが口調や仕草はとても丁寧で常識人、どうやら師匠が全幅の信頼を置いている執事らしい。
「ねぇ、しぃちゃんお願い、行こうよ」
眉を下げた姉御が起き上がり、ソファに寝転ぶ師匠のお腹にアタックしていく。
姉御は基本的に顔がいい。性格もいいけど、まず見た目がいい。春の妖精が降臨したかのような穏やかな見目をしている。
そんな美人の突撃を受けたにも関わらず、師匠は心底鬱陶しそうに、犬猫を扱うような手つきでぺいっと引き剥がした。
しかし姉御もめげない。
「行こうよ! 夏休み中、部活ばっかりでなんにも思い出ができないの! 一応うら若き乙女だから夏っぽいことしたいの!」
「だからそこの二人を連れて行けばって言っているじゃないか。車を出さなくていいなら尚更三人で行けるだろう」
弟子二人は車の免許がなく、姉御は現在自動車学校に通っているところらしい。
けんもほろろに断られ続けた姉御がついにぷくっと頬を膨らませた。
あざといなぁ、おい。
「しぃちゃんもいないと意味ないのに……」
あああああ、うわあああ、うわああああ。
ゲームをする手が滑って自機が吹っ飛び、綾人は巽に六連敗を決め込んだ。巽のほうも姉御の発言に固まっている。大丈夫か、息してるか、姉御に仄淡く片想い中の巽大雅十八歳……。
師匠もさすがに意地悪だったと思ったのか、気まずそうにぐっと黙り込んだ。
そんな微妙な空気を察したかのように書斎の扉が開く。
「……どうなさったんですか皆さん、固まって」
「高倉さん! しぃちゃんが! 花火大会行かないって言うの!」
ワゴンに飲み物とスイーツを載せてやってきた高倉の姿を見ると、姉御はぱっと顔色を明るくさせながら助けを求めた。
高倉は、このオカルトに詳しい変態師匠のことも、そこはかとなく子ども扱いする。
多分それだけ付き合いが長いということなのだろうが、彼がこの屋敷に帰ってきてからというもの「好き嫌いはいけません」「お嬢さんや未成年を夜遅くまで連れ回すものじゃありません」「暑い暑いと屋敷に籠もっていては夏休みが終わったとき大変ですよ」と、行動を制限することこそないものの、師匠をくどくど叱るところをよく見かける。
「花火大会ですか。というと、藤香ちゃんが去年も一昨年も『人混みは嫌』と結局行かなかった、あの?」
「そう、その」不満そうに相槌を打ったのは師匠だ。
高倉は師匠にアイスコーヒーを差し出しながら口元で笑う。
「まあ、藤香ちゃんもそうでしたけれど、坊ちゃんも乗り気ではなかったですものね。……よろしいじゃないですか、一緒に行って差し上げれば」
「公共交通機関なんて冗談じゃないよ」
「大丈夫ですよ、今日は周りのみんなも浴衣姿ですからじろじろ見られたりしません。それに、巽くんも秋津くんも一緒なら藤香ちゃんがはぐれる心配もないですしね」
二対一、師匠の圧倒的不利。
弟子二人は姉御の味方だとわかっている師匠なので、さすがに敗けを認めた。
「……仕方ないなぁもう……」
「やったー!」
「坊ちゃんも浴衣を出しておきましょうか?」
「適当に」
飲み物を用意しながら訊ねた高倉に、師匠はひらひらと手を振る。「巽くんと秋津くんも着ます?」と高倉は笑っていたが、弟子たちは丁重に辞退した。
師匠は変人だが見た目だけなら美人だ。基本的に和装で過ごしているから慣れているし、何より不思議な貫禄がある。
姉御も、大学の部活で茶道を嗜んでいる関係で和装は慣れているらしい。美人の浴衣姿、目の保養以外の何ものでもない。
単純な話、この顔面偏差値の高い二人の後ろに、着慣れない浴衣で並ぶ自信がなかったのだ。
「藤香ちゃんは? 浴衣を取りに帰るなら送りますよ」
「あ、そうですね。じゃあこのおやつを頂いたあとに」
高倉が持ってきてくれた本日のおやつ、彼お手製のフルーツタルトを姉御がきらきらした目で見下ろす。
その様子と、腕時計を見やって、師匠は息を吐いた。
「……師匠の浴衣があったろ、寝間着じゃないのがいくらか。あれにしたら」
「いいの? お師匠さんの」
「誰かが着ないと勿体ない。どうせそのうち処分しないといけないものだし」
不思議な沈黙が流れる。
師匠と姉御のあいだには、しばしばこうした時間があった。
やがて姉御が目元を緩めて、口元を綻ばせる。
「じゃ、しぃちゃん選んで。帯とか、わたし、よくわかんないから」
「ん。さっさと食って」
師匠は無言で、姉御は落っこちそうなほっぺたを押さえながら、絶品フルーツタルトを食べ進めていった。
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