b 生きて呪いに対峙していることの証左

 その晩は師匠の自宅に泊めてもらった。

 ご近所から「お化け屋敷」との呼び声高い、古びた西洋館。大学入学当初、知り合った学部の同級生に肝試しに誘われたが、何か起きても自分には対処する力がないので断った。おかげで彼らとの友人付き合いは途切れているが、あにはからんやその自分が、家人に招かれてこの屋敷に足を踏み入れることになろうとは……。


 いつも通り、一階の書斎のソファを借りた。

 朝陽が昇る頃に目を覚まし、気配に敏い師匠や弟弟子を起こさぬようにそっと扉を開ける。執事の高倉は近所に自宅があり、午後から通いで出勤してくるのでまだいない。靴を引っ掛け玄関を出ると、ふわ、と嗅ぎ慣れない臭いが鼻についた。

 視線を斜め横に下ろす。

 寝間着の浴衣姿の弟弟子、御年十六歳が、右手に煙草を持っていた。


「……げっ」

「……おはよう、しーちゃん」

「しーちゃんって呼ぶなよ、『しーちゃん』」


 志郎、という名から師匠はたまに彼のことも『しーちゃん』と呼んだ。

 特に弟子二人をまとめて呼び止めたいときは「おいこらしーちゃんズ」などと言う。ややこしいことこの上ない。


「餓鬼が煙草なんて吸うなよ」

「おまえだって大人じゃないだろ」

「うん、だから俺も煙草は吸ってない。若いうちから喫煙なんて体によくないぞ、師匠が怒るんじゃないのか」


「いーんだよ」どこか投げやりな口調で少年が吐き捨てる。「どうせ長生きなんてできやしないんだから」

 入口外階段ペロンに腰かけている彼の横にしゃがみこみ、まだどこか幼けない弟弟子の横顔を横目に見る。この生意気盛りの高校一年生、自分の顔が中性的なのを気にしているのか、人からじろじろ見られるのがあまり好きではないのだ。


「なんでだよ。……死神の呪いは、うまくやればおじいさんみたいに五十年も退けられるって、昨日そう聞いたじゃないか」

「あんたそれ鵜呑みにしたの。相変わらずおめでたい頭してんだね」

「…………」


 こいつの憎まれ口もいつものことである。

 ちょっとむかっとしないこともないのだが、三つも年上なので我慢した。そう、こいつは三つも年下。まだ高校一年生の反抗期。心たいらかに、穏やかに、でもやっぱりむかつく。


「五十年も退け続けるっていうのはつまり、五十年間、他の『何か』を餌にし続けるってことだよ」

「ああ、そうだな」

「それだけ他のものからの恨みも募るってことだ」

「……ん?」


 なにやら話の雲行きが怪しくなってきた。

 どうやら自分が昨日聞いた以上に、死神の呪いは厄介なものらしい。


「じい様みたいなのは別格だよ。たいていは二、三十年。短ければ数年で限界がくる。死神に体の一部を差し出した男は、例え死に至るような部位ではなかったとしても、その後遺症で少なからず体に不自由が残る。で、好機を見逃さずやってきた他の彼岸のもの共に為すすべなく喰われていくんだ」

「…………」

「じい様は心臓発作で亡くなって、納棺されたあと火葬を待たず喰い尽くされた。笑えるよね。蓋に釘を打って出棺して火葬場に向かって、最後のお別れって柩の窓を開けたスタッフが真っ蒼になって『ご遺体がない』って焦ってるんだよ」


 それでも、一族の者はそれを承知でいたから、あえて近親者のみの葬儀としたのだという。そして親族からあらかじめ聞いていた喪主は、つまり師匠と弟の父君は「かまわず焼いてください」と言い放ったのだ。

 それでようやく死神の呪いの恐ろしさを知ったのか、父君は子どもたちと距離を取るようになった。


 ――息もできなかった。

 常識的に有り得ない事象を、ただ過去の事実として淡々と語る少年が、得体の知れない生き物に見える。

 彼は紫煙を吐き出しながら、その左目を東雲の空の向こうにやったまま譫言のように続けた。


「大叔父もそうだった。曾じい様も、その上のみんなもそうだったみたい。ぼくもきっとそうだ。死体も残らない」

「…………」

「じい様はもういない。一族の男はもうぼくより下しかいない。これじゃ五十年どころか三十年も、……次回までだってもつかどうか」

「し……」


 思わずその薄い肩に手を伸ばしかけた、そのとき――



 ばっしゃああああ、と頭上から水が降ってきた。



「「…………」」


 弟子二人、動きを揃えて屋敷を見上げる。

 二階の窓から師匠が顔を覗かせていた。

 こちらも寝間着の薄桃色の浴衣姿で、いつもは一つにまとめているその艶やかな黒髪をラフに肩から流している。その白く細い手には、見覚えのあるばけつ。多分、掃除用に置いてあったものだと思う。以前高倉が雑巾を洗うのに使っていたような気がする。


「誰の金で煙草吸ってんだクソガキ!!」


 開口一番怒鳴りつけた師匠の鬼の形相といったら、このあと三度夢に見たほどだ。

 麗しい日本人形のような見た目の彼女から飛び出る少々柄の悪いお言葉の数々。


「煙草吸いたきゃ二十歳になってからにしろ。臭いがとれるまで屋敷に戻ること罷り成らん。朝飯抜きだこンの莫迦弟子どもがっ!!」

「ししししし師匠!? 俺は吸ってませんけど!?」

「見てて止めない莫迦も同罪!! 問答無用!!」

「そんな! ご慈悲を!」

「聞こえんな!!」


 ぴしゃん、と窓が閉まる。

 師匠はそのあと本当に三時間ほど玄関を開けてくれなかった。



***



 紫煙を吐きながら夜空を見上げると、山の向こうにあの銅鑼の音が聴こえた。

 どぉん、どぉん……と近づいてきた音が、やがて止まる。憶えのある強烈な闇の気配がぴりぴりと肌を撫でる。かなり慣れたが、やはり不快だ。しかしこの不快感は同時に、あのとき驚くほど頼りなく見えた弟弟子が、まだ生きて呪いに対峙していることの証左でもあった。


 年に二、三度。

 そう遠くない町のどこかで、かつて少年だったあの子が、いまでも戦っている便り。


「……しーちゃんは二十歳になって煙草解禁したのかね?」


 闇の気配が掻き消える。

 彼は今回もうまくやったらしかった。

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