幕間の一、或る弟子の懐古録

a 人間、慣れが肝心である

 あれは何ですか、と訊ねた志郎に、師匠はハンドルを握ったまま「なんだろうねぇ」と笑った。


 師匠は日本人形のようなひとだ。

 烏玉ぬばたまのような黒髪に、きりりとした双眸、血管が透けて見えそうなほど白い肌と、それに映える赤い唇。すらりとした体躯にいつもワンピースを纏っていたが、正月に振袖を披露してくれたときは、まるで生き人形のようにも見えてどきりとしたものだった。

 助手席からその横顔を見つめていた志郎は、ちらと後部座席を一瞥する。

 ぐったりと蒼褪めた弟弟子が、いつもの生意気さをすっかりひそめて目を閉じていた。その隣には茶色いテディベアが、丁寧にシートベルトまで締めて座っている。


「名前を訊いた者が誰もいないから解らないが、うちの血筋ではあれは『死神』と呼ばれている」

「死神……」


 遠い空の向こうから銅鑼のような足音を立てて迫りきた、『闇』。

 右目を寄越せと要求し、この日のために師匠が見つけてきたとびきりの心霊スポットに巣食う彼岸を喰らい尽くし、次は三百日後に、と言い置き去っていった異形のもの。


「うちは古臭いシテ方の家系でね」

「シテガタ」

「知らない単語は自分で調べたまえ莫迦弟子くん」

「…………」

「昔むかし……といっても江戸後期ほどだが、大きな講演を控えていたご当主はおおいに悩んだそうだ。平安時代の史実をモデルに作られた脚本を演らないといけないのに、当時を生きていない自分はこの役の真意が全く解らない。切羽詰まったご当主は、まことに愚かなことに、悠久のときを生きているとされる『死神』と取引をした……」


 師匠の、高くもなく低くもない、恬淡とした声音が降り積もっていく。


「かくして死神に当時のことを詳しく語り聴いたご当主は、『ぜひともこの老いぼれの最期の舞台を観にきておくれ。そのあとならば喜んでこの身を差し出そう』と申し出た。死神は莫迦正直にご丁寧に、待っちゃったのさ。で、舞台を終えたご当主のもとを訪れてみると、彼はこう言った」


 ――悪いが故あってこの身はやれぬ。右耳をくれてやるから、残りは一つずつ、わたしの子らから喰らうと良い。


「……普通、自分の後世にそんな厄介な呪いを継がせますかね……」

「継がせてしまったんだなぁこれが。――全くはた迷惑な話だがそういうわけで、どこそこを寄越せ、悪いがまだやれぬ、と先送りにしながら呪いを受け継いできたという、まあ阿呆らしい話だよ」

「それがいま、彼のもとにあると」

「そう。基本的には直系男子に近い順に現れる。父上殿は婿養子なうえ見鬼もさっぱりだから飛ばされて、おじい様の次がいきなりこの子だ」


 再び後ろを振り返ってみると、死んだように沈黙していた弟弟子はこちらを見ていた。

 師匠と同じ黒い髪で、呪われた右目を隠した白皙の少年。授業終わりに迎えに行ったものだからまだ学ラン姿だ。


「この子の次はまだ二歳の末っ子。……何があってもで、わたしたちが時間を稼がなければならない」

「その呪い、直系男子ということは、師匠にいくことはないんですね」

「ないね。実際、おじい様のあと姉のわたしのもとには現れなかった」


 そうか、と腑に落ちた感覚だった。

 この無茶苦茶な人に弟子認定され、意味もわからず弟弟子と一緒に連れ回され、その腑抜けた見鬼根性を鍛え直すとか言われながら心霊スポットに放り込まれたりどこから持ってきたのかも解らない呪具で遊んだりたまに呆れるほど物理的にオカルト現象を撃退したりしていたのは――ああ、思い出したら胃が痛くなってきた。


 すべては彼女の、弟たちのため。


「師匠のご両親、見鬼じゃないんですね」

「どうもうちの見鬼は男系らしい。代々男に現れるが、おじい様とおばあ様の間には女しか生まれなかったんだ。母様にも見鬼はない。女の身でこれだけ視えているわたしのほうがおかしいんだよ。実際おじい様はわたしの見鬼に気づくや否や『こいつ性別間違えて生まれてきたな』とぼやいて母様にぶん殴られた」

「おじいさん……」


 けっこう大変な話を聞いているはずなのだが、どうも師匠の語り口がざっくばらんなせいで剽軽だ。


「父上殿は現実主義でいらっしゃる。わたしたちに視えているものが自分には見えないから、『大人をからかうんじゃない』とよく叱られた。お陰様でしーちゃんはすっかり反抗期、勢い余ってこんなところまで家出してしまう始末」

「姉さんだって同じようなものだろうが!」

「吠えるな子犬が。わたしは父上殿と正々堂々ガチバトルして受験もちゃんと済ませてから晴れて家を出たんだ。家出して家人に心配と不安を撒き散らしたろくでなしと同じにしてほしくないね」


 ……弟のために死神対策をしている涙ぐましい姉の発言とも思えないが、この師匠の憎まれ口はいつものことなので、志郎はさらっと流しておいた。

 人間、慣れが肝心である。

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