f どーすんのまた安請け合いして!
姉御の目に視えた、怖い顔をした着物の女性。
それはまず間違いなく薬袋の大伯母であるとして、姉御の絶対的な見鬼をしても年齢も判然としないということは、彼女がそれだけ長い年月に渡りこの手鏡に想いを籠め続けたということだ。
嫁入りしたばかりの頃から、晩年まで。
着物の懐にそっと忍ばせたちいさな手鏡。
さ、と取り出しては表情を作る。
笑顔。
笑顔、笑顔――。
表に笑顔を浮かべるたびに、押し殺された負の感情や醜い表情は、彼女の手を通して手鏡のなかに降り積もり続けた……。
「フルカの目に視える女性は、“あちら”の世界に追いやられてしまった大伯母の、負の側面がひたすらに強いほんとうの彼女、といったところだろうね」
持ち主ですら意図せぬところで、長年降り積もった負の感情、彼女のなかのあらゆる悪意は手鏡にすべて集約された。此岸に生きる人びとの強い想いは、良かれ悪しかれ彼岸のものに作用する。
周辺に散っていた瘴気を取り込み、瘴気が澱みを生んだ。深い澱みは人間の与り知らぬところで悪影響を及ぼす。心にも体にも。
「持ち主の生前は彼女自身の『笑顔でいなければならない』という強い気持ちで蓋をされていたが、死後少しずつ“あちら”から瘴気が洩れるようになった。そして意図の有無は置いておいて、形見分けとして手鏡は妹君のところへ送られた。その瘴気にあてられて体を悪くした――大体そういう流れだと思う」
師匠は素っ気のない声音で言い放ったが、綾人は釈然としない気持ちでそれを聴いていた。
だってそれでは、やはり薬袋の祖母君は、大伯母のせいで身罷ったということになるではないか。
そして大伯母の遺族はその原因を作ったのだ。この手鏡にそんな大きな力があると、気づいていなかったにしても。
手のなかで扇子を玩びながら、師匠は薬袋から視線を逸らす。
「好きにすればいいよ。例えば川に投げ込むとか、粉々になるまで割るとか、その大伯母の遺族のもとに送り返すとかね」
薬袋は応えなかった。
膝の上に組んだ両手をじっと見下ろしたまま無言でいる。
誰も口を開かないので、庭のどんぐりの木で鳴いている蝉の大合唱がよく聴こえた。
そのうちの一羽が瀕死の声を上げている。
じじ……と苦しげな断末魔に耳を澄ますように、薬袋はふと顔を上げた。
「……お前に預ける」
みーちゃん、と気遣わしげな表情になる姉御へは苦笑を向ける。
「成る程あの人たちは、もしかしたらこの手鏡はよくないかもしれないと考えて、ばあさんのところに送ったかもしれない。或いは、なんにも考えず、ただ仲の良かったばあさんに善意で形見を分けてくれたのかもしれない」
「……薬袋の好きなように解釈したまえよ」
「どっちでもいいんだ、俺は。なんにせよばあさんは死んだ。もう一周忌も済んだ。死んだ人間は生き返らない。なら今更、手鏡のせいだなんだと騒いだって仕方ない」
師匠が肩を竦める。
どうやら彼には、薬袋の言葉は予想できていたらしい。
「向こう岸のもののために、こちら側の俺たちは心を囚われるべきではない。そうだろう」
「……どこかの誰かさんも、おまえくらい物分かりが良ければねェ」
顔を逸らしたのは姉御である。
口の端に薄い笑みを浮かべた師匠は、いつもの平坦な声音をほんの少し弾ませると、こてりと首を傾げて薬袋と目を合わせた。
「わかった。これはぼくで預かろう」
呪いの手鏡を師匠宅に預けることにした薬袋が、見送りを固辞してひとり書斎を出て行く。
まとまった時間を傍で過ごしたため慣れてきたが、やはりテーブルの上の鏡からは絶えず嫌な気配がしている。時折、思い出したように黒い靄が集まっては拡がり、不規則に揺らいでは渦を巻いた。
「それで師匠、預かろうなんて言って、これどうする気なんですか」
なにせ鏡台の抽斗のなかから人を死に至らしめるアイテムである。
いくらこの洋館が広いといっても、同じ敷地内にあるだけで精神衛生上よろしくないはずだ。肉体的にも全くの無害であるはずがない。
それだというのに、師匠はいつも通り薄い微笑を浮かべた。
「扨て。……どうしたものかねぇ」
「無策なんじゃないですか! どーすんのまた安請け合いして! 本当に川に投げ込むつもりですか!?」
「投げ込んでもいいけど、ちょっと呪詛が強すぎるね。これくらい力があると下手なことすると無辜の他人のもとに流れ着きかねない。鏡自体を粉砕したとすると、ちょっと返ってきそうだし……」
言わずもがな、呪いが返ってくる、のである。
人を呪わば穴二つ。今回の場合は呪いの当事者がすでにこの世にないため、鏡を粉砕する本人やその周囲の人、または血縁でこの手鏡に触れた薬袋と従妹に何かが振りかかる恐れがあるのだ。
彼岸のもの、特によくないほうのものは、これといった理由もなく相手を選ぶことが多い。
「ま、とりあえず秋津くん、今日はそこな役立たずの弟子一号を連れてお帰んなさい」
「えっ」
てっきり今すぐどうにかするものと思っていたが。
「フルカ、おまえも。一応、術者も被術者も女性だから念のため近寄らないようにしなさい。これくらいのものをうっかり浄化しちゃったら、よくないものに目をつけられる……」
姉御は物言いたげな視線を送っていたものの、小さく息を吐いてうなずいた。
いつになく彼女の眦に力があったような気がするのは、それだけこの呪いのアイテムが危険だということではないのか。
「で、良いと言う迄、全員うちには来ないこと。準備ができたら呼ぶから興味があれば集まりなさい」
「準備なんてあるんですか?……いっつもボロ懐中電灯一本で突撃させるくせに?」
「あるの。暦のうえでね」
はてなを浮かべながら首を傾げる。
こういうものを処分するのにカレンダーが影響するなんて初耳だ。六曜の何かが関係したりするのだろうか?
ソファにぐったり倒れたままの巽を見下ろす。
さすがに慣れたか、もうトイレに駆け込むほどではないようだ。
「本当に大丈夫なんです? 知らない間に死んでたりしません?」
「しない、しない。耐性のない一般人やビビリチキンどもと一緒にしないでくれる?」
ひどい言い草だな。
いつものことだけれども!
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