g 巽を引き摺りながら書斎を出た

 師匠の憎まれ口はいつものことなので(そして何より事実でもあるので)、綾人は言いつけどおり、巽に肩を貸してやって洋館をあとにすることにした。


 姉御は処分の方法について師匠と相談してから帰るという。

 巽が卒倒し綾人も極力近くにいたくない呪いのアイテムを、ぽんとテーブルに置いたまま平然と会話していた年上二人。改めてこの真夏にも背筋の寒くなるような畏怖を感じつつ、力の入っていない巽をずるずると引き摺りながら書斎を出た。

 どこかひんやりとした玄関で靴を履いて、外に出た瞬間、手鏡の発する重苦しい瘴気が物理的に遮断されたおかげで息が楽になった。

 同時にすこぶる暑いが。


「巽、歩けるかー」

「おう……すまん」

「いいけど、お前俺より背が高いからきつい、重い、そして暑い」

「遠慮ねえな」


 男相手に遠慮してもいいことは何もない。

 緑の繁る庭先を抜けて、瀟洒な門扉まで越えて敷地を出ると、巽は綾人の手を離れて立てるようになった。さすがに距離を取れば問題ないみたいだ。

 お互い大学近辺に一人暮らしをしている身で、途中までは方向も同じなので、ちらちらと洋館を振り返りながら並んで歩いた。


「……師匠、ほんとうに大丈夫なんだろうか」

「あそこ、元々お化け屋敷だからな。呪いのアイテムが一個仲間入りするくらいは問題ないだろ」

「でも使用人さんがいるだろ。影響出ないか?」


 たまに顔を合わせる程度だが、あの洋館には玉緒というメイドが勤めている。

 彼女が見鬼かどうかは確認したことがない。しかし女性である玉緒も、姉御同様に距離を取ったほうがいいはずだった。


「まあ、あの人も全くの一般人ってわけじゃねえし。そもそもそこまで長引かせないはずだ」

「長引かせないって、準備を?」

「ああ。……秋津と知り合う前にも似たような案件があってな」


 巽はそっと視線を逸らして、いかにも「思い出したくありません」といった柔らかい笑みを浮かべた。

 この表情は知っている。

 何もかもどうにもならなくて諦めたときの微笑みである。


「あのときも、どうするかっつーよりどこで破壊するかってのが問題になってな……場所探しに時間がかかったんだよ」

「なんかヤな予感すんなぁその言い方……」

「肝心の方法については大雑把だかんな、あの人。まあ遅くとも一週間以内だろ」


 ますます嫌な予感。


 明るいうちに師匠の家を出ることが滅多にないので、なんだか新鮮な気持ちで巽と別れて帰路を辿った。

 師匠がどういう手段であの手鏡の処分にかかるのかは気にかかったものの、差し当たっての問題は今晩の食事だ。元々低かった家事スキルは、師匠の家に入り浸って巽や姉御のごはんを食べさせてもらっているせいで、一人暮らしを始めて四ヶ月が経ったいまでもあまり上がっていない。


 カレーでも作るか。

 近所のスーパーでそれっぽい材料を購入し、綾人はアパートに戻った。


 綾人が暮らしているのは築四年ほどの比較的きれいな建物で、バス・トイレが別という譲れないこだわりを満たし、かつ霊的気配が感じられない優良物件である。物件選びの際、扉の前に立った瞬間から「あ、やばいこれ」と感じるようなところもあったことを考えると、文句なしの花丸だ。

 一階の角部屋、家具・家電つき。


 カードキーを差し込んでドアを開けた瞬間、籠もっていた熱気が頬を打った。

 暑い。

 いますぐ冷房のよく効いた書斎に戻りたい。

 ――が、いまあの書斎には、屋敷のなかからでもその存在を知覚できたほどに絶大な澱みの元凶があるわけで。まるで水に突っ込んだドライアイス並に絶えず洩れていた黒い瘴気に比べれば、部屋の暑さくらい耐えられる気がした。


 食材を冷蔵庫に突っ込んだり手洗い嗽をしたりしているうちに、冷房が少しずつ効きはじめた。

 ベッドに寝転がって、千鳥からきていたラインを表示する。次の撮影の日時に関する連絡だったので、空いている時間帯を返信しておいた。


「……今週は、まあ、いちおう空けとくか」


 どういう方法を取るつもりなのか知らないが、薬袋が「預ける」と言い、姉御も反対はしなかった。少なくとも師匠があの手鏡を持つにあたっては、命の危険があるわけではないのだろう。

 命の危険、とか、嫌だなぁ……。

 師匠たちと過ごす日々は、刺激的だし、どこか非日常的な感じがあって好きだ。

 だがやはり怖い目に遭うのだけは遠慮したい。いや、そもそも一緒にいる目的が彼岸の存在に慣れることであるからして、遠慮したいなどと言っている場合ではないのだが――。


 悶々としながらツイッターを開こうとしたとき、画面が急に黒くなった。


「うわ……って、なんだ電話か」


 母からである。

 急なことだったので少しどきどきしつつ応答すると、母の呑気な声が聴こえてきた。


『あ、綾人。元気ー?』

「ふつうだけど。……そっちは?」

『お父さんもお母さんも元気よ。紗彩さあやは七月末まで補講があって大変そうだった。絢人けんとは派手なお友だちができたみたいで、ちょっと髪の毛の色が明るくなったよ』

「派手なお友だちって」


 紗彩と絢人は、三つ年下の、双子の弟と妹だ。今年、高校一年生になった。

 紗彩は自宅近くの女子高に、絢人も同じく自宅から自転車通学圏内の工業高校に進学している。


「……まあ絢人は中学の頃からそんなじゃん」

『まあね。学校はなんだかんだで楽しいみたいだし、頭が茶色になるくらいいっか。綾人は夏休みどうするの、お盆はおばあちゃんち行く予定だけど』

「バイト休めたらそっち戻るよ」


 もう何年も口をきいていない、弟の顔が脳裡にちらつく。

 綾人が戻れば絢人の機嫌が悪くなるだろうが、お盆と年末年始くらい、家族の顔は見ておかねばなるまい。


『あんたからも絢人に言ってやってね。とりあえず警察のご厄介になるようなことだけはやめなさいって』

「俺が言ったら余計にグレないかな、あいつ」


 苦笑気味に零すが、母は『ええ、そうかな?』と懐疑的だ。


『昔は絢人も綾人大好きっ子だったのに、いつまで反抗期してるのかしらね』

「むしろ高校生になってまで兄貴大好きだったら気味悪いだろー」


 父や母は、兄弟の不仲を、絢人の一方的な反骨心からくるものだと考えている。

 二人の間に何があったかは二人しか知らないからだ。

 いや正確には絢人にさえ解っていない。ことを把握しているのは綾人のみだった。綾人にしか視えていなかった。


 家族には、綾人の見鬼を詳しく知らせていない。

 師匠に弟子入りするきっかけとなる事件で彼岸のものと関わった紗彩を除いて、綾人の過去の発言は全て子どもの虚言であったと認識されている。いまも視えていることや、師匠に弟子入りして対処を学ぼうとしていることを、両親と弟は知らない。

 これからもきっと、伝えることはない。



「いいんだよ。……俺が悪いんだから」

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