e “あちら”と“こちら”を分ける境界
「……で、こんなよくない気配のするものが毎日ずっと部屋にあってまともでいられるはずがない、絶対にこれが原因だと従妹が言い張ったんで、とりあえず俺が預かって持ってきたというわけ」
薬袋はそう締めくくって、すっかり水滴を浮かべた麦茶のグラスを手に持つ。
氷の揺れる涼やかな音ののち、姉御が言葉を継いだ。
「わたしも先に話だけ聴いていたんだけど、そんなもの薬袋が預かっていても危険なだけでしょう。都合のいいのが最速で今日だったから部活に持ってきてもらったんだけど、思ったよりも厄介そうだったから直接連れてきた」
「危険なだけって言ってもおまえ、なんともなさそうだけどね」
師匠は腕組みをして呆れたように溜め息をつく。
薬袋も腕を組んで鷹揚にうなずいた。
「おう。従妹やみーちゃんが嫌だ嫌だって言うから、そういうもんなんだろうなと納得してはいるが、俺自身は特になにもない。だから持っていても支障はないだろうと思うんだが」
「ここまでのものになると普通の人でも本能的に避けたがるものなんだけどねぇ。大方その形見分けっていうのも名目だけで、実際は嫌な感じのするものを押しつけられただけなんじゃないのか」
「俺はその通りだと思う。ただ従妹は、そういう悪意を信じたくないみたいだけどな」
古びた、ちいさな手鏡。
事情を聴き終えた師匠が左目で姉御を一瞥する。
「……フルカは何が視える」
彼女は口元を引き攣らせてううんと唸った。
「……逆に訊くけど、しぃちゃんには何が視える?」
「特には。瘴気と怨念が黒々していて鬱陶しいっていうくらい」
「鏡には? 何か映る?」
「鏡ねぇ」訝しげな声音になった師匠は、あろうことか無造作に手鏡をひょいと持ち上げる。
もしかしたら薬袋の祖母を死に至らしめたかもしれない、凄絶な呪詛のものを。
……まるで汚い雑巾を持つみたいに、親指と人差し指で摘まんで。
その振舞いにさすがの綾人も引いた。師匠から距離をとって、ぐったりしている巽のほうに回る。だってあんなもの、視ているだけでも恐ろしいのに、そんな無体な持ち方。バチが当たりそうだ。
「……曇って視えないけど?」
あくまでも呪いのアイテムは汚い雑巾扱いらしい、師匠は指先につまんだままくるりと向きを変えて、鏡の面を姉御へと向けた。
姉御がきゅっと目を閉じる。
「あーだめ、しぃちゃん、だめ、目が合う」
「へェ。誰かいるの?」
「多分その大伯母さんだと思う……。年季が入りすぎて年齢はちょっと判然としないけど、着物を着てる。淡い藤色の……」
今度は師匠がこちらに鏡を向けたので、ひいい、と悲鳴を上げつつ身を捩った。そんな情報を聞かされて鏡を覗きたがるやつがいるものか!!
「目が合うとまずい?」
「まずいわけじゃないけど、その、すっごく怖い顔してるの……」
「へえ」
師匠は気のない相槌を打ってからようやく手鏡をテーブルの上に戻した。
さしもの姉御もほっとしたようで、小さく息を吐いてソファに深く腰を沈める。
するとその様子を黙って眺めていた薬袋が、眉を下げて「なあ」と低く呻いた。
「従妹の話では、ばあさんは息を引き取る前、あたしは幸せだ、と言い残したらしい」
「……姉君とは大違いだね」
「そうなんだ。……じいさんとばあさんは傍目にも仲がよかったし、うちはいまでも盆や年末年始にはみんなが揃うような、和気藹々とした一族なんだ。大伯母のところも夫婦仲以外は良好だったそうだが、……幸せ者のばあさんを、大伯母が憎んで呪い殺したということだろうか?」
「それはないよ」
肩を竦めて断言した師匠を、呆気にとられた様子で薬袋が見つめる。
「だって、もっと憎まれて呪われるべき相手はもう死んでしまっているのに、わざわざ遠方に住む妹を呪い殺す道理がないだろ」
「だが……」
「手鏡がおばあさんの手元に渡ったのは大伯母の死後。彼女自身にだって、形見分けと称して鏡が妹のもとに送られるかなんて判らなかったんじゃないかな。遺言だったわけでもないんだろう?」
「それは、まあ、そうらしいけど」
「時系列的にそれはない。おまえの考えすぎだ」
師匠はいっそ冷淡なほどに断じてみせた。
それでもまだ一抹の疑念が残るらしい薬袋に向けて、「恐らくは――」と吐息交じりに零す。
「この手鏡自体も、誰かを呪うための媒体ではなかったんだろう」
パチン。
唐突に聞こえてきたその音にはっとして視線を向けると、師匠がいつの間にか取り出した扇子を片手にして、漆塗りの親骨を開いたり閉じたりしていた。
「古来鏡は極めて神秘的なものとして、化粧道具としてよりも先に、祭祀の道具としての性格を帯びていた。鏡の面は世界の“あちら”と“こちら”を分ける境界であり、鏡の向こうにはもう一つの世界があるのだ、という観念は世界各地に見られる。三種の神器には八咫鏡、閻魔大王の隣には浄玻璃鏡、『鏡の国のアリス』に『白雪姫』、鏡が重要な役割を果たす伝承や作品は数多い……そして実際、霊性を帯びやすい媒体でもある」
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