その五、自殺させたい踏切

a ちくしょうお天気お姉さんめ

 都会の夏がこんなにも暑いなんて知らなかった。

 岐阜の多治見や下呂、高知の四万十に埼玉の熊谷が40℃以上を記録しただとか、暑そうなイメージのある沖縄は日差しのわりに気温が高くないだとか――そういう情報は聞きかじっていたものの、大学進学に際して進出してきたこの天下の台所が、地獄の釜もかくやといった暑さだなんて知りもしなかった。


 暦は七月半ばを少し過ぎたところ。

 山中の廃屋、人工的に作られた心霊スポットを訪れて数日が経った。

 本日の最高気温は36℃ということだったが、アスファルトの照り返しや、建物が蓄えた熱がじりじりと体感温度を上げてくる。


 これで36℃なものか。

 絶対40℃はあるぞ、測ってやろうか、ちくしょうお天気お姉さんめ。

 お天気お姉さんに罪はないと知りつつ、呼吸するだけで汗が滲む不快感を振り払うように、綾人は思いっきり走りだした。


「暑い……溶ける……砂になる……アイスも溶ける!」


 右手に提げたコンビニのレジ袋ががっさがっさと揺れる。

 今日は土曜日で基本的に講義がないため、大学近辺の通りは人の往来も少なく静かだった。時折すれ違う大学生は、補講やサークル活動のためにやってきた面々なのだろう。

 正門近くのコンビニで買い物をした綾人は、在籍する幸丸大学の本部キャンパスを突っ切って南門から、目的地であるお化け屋敷を目指した。




 なぜこんなくそ暑いなか外を出歩くはめになったのかというと、師匠が急に電話を寄越してきたからである。


 授業とアルバイトの予定がなく、サークルにも所属していない綾人は、朝からだらだらしていた。

 十時過ぎに目を覚まし、二日ぶりに洗濯機を回し、着替えもしないでパソコンにレンタルしたDVDを入れて、往年も素敵だが若年のオードリー・ヘップバーンはすこぶる可愛いなぁとしみじみしていたのだ。優雅な休日である。


 だから、液晶の割れた可哀想なスマホの画面がぴかっと光って着信を告げたときも、最初は無視しようと思っていた。

 どうせ母か妹か、それでなければ相方の千鳥だ。前者二人なら電話に出ても「ちゃんと食べてるのか」「掃除してるのか」といったお小言ばかりだし、千鳥相手だったら恐らく動画撮影か外出のお誘いになるだろう。

 今日は外に出ない。そういう気分だ。


 が、まあ一応誰からかは確認しておくかと画面を覗きこんだ瞬間、弾かれたように応答していた。


「ししししし師匠!? なんすか!?」

『遅い』


 開口一番怒られた。

 涼やかな鈴のような、高くもなく低くもない不思議な声音は耳に心地よいが、抑揚が薄く淡々としているので電話越しだと少し怖い。


「すんませんティファニーで朝食してました」

『優雅な休日だねェ、つまり暇なんだね? 秋津くんきみ、いまからアイスをひぃ、ふぅ、みぃ……六つ? 六つ買ってうちに来なさい。お金はあとで返すから』

「いやいつも奢ってもらってるしそれくらい。……洗濯物干してからでもいいですか?」

『いいけどお昼には間に合うように。古瀬がお素麺用意してるよ』

「行きます。いますぐ行きます!!」


 画面のなかのオードリー・ヘップバーンは捨てがたいが、生ける春の妖精たる姉御には敵わない。『洗濯干してからじゃないと皺になるよ』と呆れたような師匠の声にハッと我に返った頃には、通話はすでに切れていた。

 というわけで身なりを整え、洗濯物を干し、火の元戸締りをチェックしてからアパートを出たのち、パシリに殉じている次第である。


 幸丸大学南門から徒歩十分の道のりを駆け抜けること数分、閑静な住宅街のなかに、ひときわ陰惨な雰囲気を放つ洋館が現れる。

 門前で立ち止まると、どっと汗が浮かんだ。


「暑い……」


 当然のことをぼやきつつ呼び鈴を押す。

 りんごーん、と遠く屋敷のほうで鈍い音が響いた。


「はい」

「あっ、その声は玉緒さん。こんにちは、秋津です!」

「こんにちは、秋津さま。どうぞお入りください」


 淡泊な声いろの応答も、二度めとなれば動揺しない。ご近所から「お化け屋敷」との呼び声高いこの西洋館にお勤めする、古典的クラシックな美人メイドの玉緒である。

 綾人は程よく手入れされ程々に放置もされた庭を抜け、蝉の大合唱の下を通り、屋敷の玄関の扉を開けた。

 広いエントランスホールで、体の前で両手を重ねた上品な立ち姿の玉緒がぺこりと一礼する。


「いらっしゃいませ、秋津さま。坊ちゃまはお嬢さまをお送りに出ていらっしゃいます」

「お邪魔します。姉御、なんか用事だったんですか?」

「部活動のほうで親睦会があるそうです。本日はボウリング大会のようですよ」

「姉御がボウリングってなんか想像できない……。あ、これ、師匠から言われてたアイスです。冷凍庫に入れといてもらっていいですか」


 そういえば前回も彼女にアイスを預けたような。

 今日は六個も買わされたし、当然玉緒のぶんも数に入っていることだろう。彼女は陶器のようにつるんとした頬を一切緩ませることなく「かしこまりました」とうなずいた。


「どうぞ、ごゆっくり」


 色々な種類を買ってみたから、玉緒の気に入るものもあればいいな。

 あの玉緒もアイスを食べるときはちょっとくらい笑ったりするのだろうか。自分の想像にこっそり口元を緩めた綾人は、いつもの書斎の扉を目指した。

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