g 大ごとどころの話じゃないんですが

「まあ山からそう離れられないはずだし、少しすれば戻ってまた自分の務めに戻るんじゃないかな。悪さをするようには視え、ない、し……」


 姉御の視線が車から移動した。

 すぅっと弧を描き、巽の後ろへ。それと同時に巽ががくんと崩れ落ちて、地面に膝をつく。


「……はっ!? 巽?」

「なんだこれ、重……」



 かつん。



 何気なく鳴らされた姉御のパンプスのヒールの音が波紋を生んだ。


 ちいさな鈴が揺れるような高い音がして、その場の気温が二度、下がる。

 姉御の左足を起点に広がった清浄な空気がさっと辺りを駆け抜けた。夏の盛りにも不思議とひんやりした気配が、目に見えない澱みをまとめて祓っていく。


 呆然とした顔の巽が姉御を見上げた。

 彼女の視線はすでに遠く、先程逃げてきた山があるほうを向いている。すぅっと細められた姉御の眦に驚くほど冷たいいろが差した。


「……あんまりうちの弟子に悪戯するなら、山にも二度と戻れないようにするわね」


 聞いたこともない彼女の冷酷な声に、守られたはずの弟子二人が呆気に取られる。一方、傍でその様子を眺めたいた師匠はこともなげに「おやおや怖いねェ」と肩を竦めた。


「山まで押し戻したのかい」

「巽くんの首を千切ろうとしたから、つい追っ払っちゃった」


 目元を緩めていつもの穏やかな表情になった姉御がけろっととんでもないことを言いだした。

「「なにそれ怖い!!」」思わず巽と手を取り合って震えてしまう。


「……ぼくにはとりあえず猿にしか視えなかったんだが、どんなやつだった?」

「ん、まあ、ちょっとおどろおどろしいほうかな。一つ目で、手だけが長いの。あんまりいい感じはしない」

「悪さしそうにないって言いかけたくせに」

「自覚のない純粋な悪意って難しいよね。……あの子にとっては、お気に入りのキラキラするものを持って帰ろうとしただけなんでしょうけど、こっちにしてみれば大ごとだわ」


 大ごとどころの話じゃないんですが。

 危うく首を千切られるところだった巽と顔を見合わせる。迫力美形が真っ蒼だ。きっと綾人も血の気が引いて真っ白だ。

 高校時代ケンカ負けなしのスーパーヤンキーとして名を馳せた巽の、これまで幾人もの不良を地に沈めてきたはずの無骨な両手は、多分誰も見たことがないであろうレベルでガタガタ震えていた。




 ややあって落ち着きを取り戻した四人は帰路を辿った。

 往路と同じように、姉御セレクトのご機嫌な洋楽が流れる。助手席でシートベルトを締めていたあざらしは後部座席の弟子たちの膝で暑がられている。師匠は両手でハンドルを握って、声を荒げることなく、夜道を安全運転している。


「ま、なかなか有意義な検証であった」

「うふ。とっても焦ったくせに、余裕ぶっちゃって」

「やかましいよそこの初恋粘着女」

「反抗期シスコンに言われたくないですぅ。……弟子ふたり乗せて事故なんて笑えないもんね。焦るしぃちゃん見たかったなぁ」


 前の席でなにやらいちゃいちゃと会話している二人を、巽がぼんやりと眺めていた。

 綾人はその横顔に視線をやりつつ、膝の上にででんと横たわるあざらし様の眉を指でなぞる。


 師匠と姉御は男女の関係ではないらしい。

 それなのにどうしてだか、他者の入り込む余地など一片もないように思う。彼らの過去や事情の片鱗さえ知らない弟子たちには、触れることさえままならない。


 いつか、師匠と姉御のことも知っていくようになるのだろうか。

 未来のことを考えて口元を綻ばせていた綾人の耳に、冷やりとした師匠の声が届く。


「……それにしても恐ろしい話だね」


 急激に現実に引き戻された弟子二人の視線が師の後ろ頭に集まった。

 対向車のヘッドライトに照らされて浮かび上がる、彼の黒い髪、白いうなじ。男くささは一切ないのに女々しいわけでもない、不思議な後ろ姿だ。


「今回はたまたま山に棲むただの妖怪が起こした勘違いで、たいして害のない心霊スポットだったからよかった。余程巽の金髪がお気に入りだったらしいが、我々には藤がいて事なきを得たし、ほかに実害があったという話も聞かない」


 運転に支障をきたしたのは実害に入らないのか?

 あんなに怒ってたのに?

 あんなに怒鳴る師匠、怖かったのに?

 ……最終的に事故は起こさなかったからオーケイということなのだろうか。師匠はけっこうそういうところは大雑把だ。


「これがもし、人に害をなすような悪意あるものに、たちの悪い勘違いが起きたとすると」



 もしも。

 人にとっては理不尽に、こちらを排除しようとする悪意のあるものだったとしたら。

 もしも『子どもの声が聴こえる』ではなく、人が消えるとか死ぬとかそういう、たちの悪い噂話があの猿神に力を与えていたら。



 師匠は最後まで口にしようとしなかった。

 姉御も巽も、言葉を継ごうとしなかった。

 深く考えるのが怖くなった綾人は窓の外に視線を逃がした。人の言葉一つで心霊スポットを作ることができる、その事例を目にしたばかりでは、乏しい想像力でもその続きを推測できてしまった。


 ご機嫌な洋楽が場違いに愛を謳う。

 窓の外を、夜の帳に包まれた鹿嶋市の夜景が流れていく。



***



 この出来事から数年後、綾人は別な友人とあの廃屋を訪れたことがあった。

 相変わらず山自体には何もなく、廃屋は空っぽできれいなものだったが、何者かの足音と「かえして」という子どもの声は聞こえていた。


 恐らくいまも猿神がいるのだろう。

 子どもの声が聴こえる、という人びとの信仰を糧に、自分はそういう存在なのだと信じて。

 今日も。

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