d 「忘れ物をした」

「今日、師匠って五限終わりだったっけ」


 師匠師匠と仰いではいるものの、当の本人も綾人たちと同じ大学生であった。

 詳しい専攻はわからないが理工学部で、恐らく三回生、白衣を着ている姿を見かけたことがある。


「だな。なんか作っとくか」


 弟子入りしたばかりのときは呼びつけられない限り、あるいは巽に連行されない限りここには来なかったのだが、六月に入ってからは用がなくとも寛ぎにくるようになっていた。


 なにせここは居心地がよい。

 広い書斎、本棚にずらりと並ぶ書籍、ふかふかのソファ。居間に行けばテレビがあり、巽の淹れる紅茶やお高いコーヒー、師匠セレクトの美味なるお菓子。オカルトツアーに出掛ける夜は師匠が夕飯を奢ってくれることもあるし、そうでなくともここにくれば冷蔵庫の中身を好きに調理させてもらえる。極めつけは冷暖房完備ということだった。探せばどこかの部屋に炬燵も置いていそうだ。

 近所からはお化け屋敷と呼ばれ、たまに肝試しにきた悪がきや大学生が不法侵入してくることもあるようだが、二階の誰かさん以外ではお化けらしいお化けに遭遇したこともない。

 すでにこの洋館は綾人の第二の家になりつつあった。


 しばらく書斎でごろごろ休憩したあとは、男二人でキッチンに籠もり、冷蔵庫を漁って適当な食事を作る。なぜか舞茸やえりんぎなどのきのこ類が勢揃いしていたので、きのこたっぷり和風パスタにした。


 そうしているうちに五限の講義を終えた師匠が帰宅してくる。

 大学では悪目立ちしないように普通の洋服を着ているが、師匠は帰宅早々いったん二階の自室に籠もり、濃紺の着流しに銀鼠の帯を極めて下りてきた。


「師匠おかえりなさい。今日はきのこパスタです。きのこがいっぱいあったので」

「あー、ウン。きのこが食べたくなったから買っておいたんだよね」

「だろうなぁと、巽と言いながら作りました」

「秋津クンは今日は何をしたんだい?」


 家事スキルは見た目金髪ヤンキーの巽のほうが数倍上なのである。

 それを解っている師匠が悪戯っぽく笑うので、綾人はえへんと胸を張った。


「今日はお湯を沸かして、きのこをさきました!」

「へーぇ。エライエライ。上手にできたかな?」

「ばかにされてる」


 豪奢なシャンデリアのぶら下がる古風な食堂で夕食を終え、食後のコーヒーまで優雅に飲んだあとは、またそれぞれ好き勝手に時間を過ごした。

 ちなみに食事中に「師匠の右目ってどうなってんですか」と訊ねると、彼はうっすらと笑って「呪われているのさ」と返してきてそれ以上は教えてくれなかった。

 本当なのか嘘なのか判らず微妙な表情を浮かべていると、肩を竦めて「きのこ上手にさけてるね」と話を逸らしてしまったので、『答えたくない理由がある』のケースだと判断することにする。


 書斎に戻り、綾人は二人掛けのソファに寝転んでゲームをし、師匠はレポート課題があるらしく、膝に載せたノートパソコンと睨めっこをしていた。ばりばりの洋館に着物姿の師匠がパソコンを見つめている様は控えめに言ってもミスマッチだ。巽は彼の隣に行儀よく座って、今朝から全然進んでいない『たけくらべ』を読んでいる。

 そうして平和な時間を過ごしていると、ふと師匠が画面から顔を上げてつぶやいた。


「忘れ物をした」


 つられて顔を上げ、巽とともに彼を見る。

 中性的で謎めいた顔立ちの師匠は、左目だけでつと兄弟子を見下ろした。


「巽、ちょいとひとっ走りして取っておいで」

「……なんでわざわざ。明日じゃだめなんです?」


 巽が訝しげに首を傾げる。

 わざわざと言うように、時刻はすでに八時を過ぎ、とっくに日は暮れていた。取っておいでというからには頭へ「大学へ」とつくのだろうが、そもそもこの時間ならすでに閉門されている可能性の方が高い。


「今晩中に仕上げたいレポートのデータが入ったUSBなんだよね。怖いなら秋津くんと一緒に行っておいで」

「…………」


 そこで自分で取りに行くという言葉が出てこないのが、師匠が師匠たるゆえんなのだろう。

 そして「自分で取りに行けよ」という言葉が出てこないのが、巽が弟子たるゆえんである。

 多分に物言いたげな表情をしているものの、結局本を閉じて立ち上がるのだからお人好しにもほどがある。巽のこういうところが嫌いではない。


 ついてこいとは言われなかったが、綾人もゲームの電源を落として体を起こすと、師匠は「いやぁ優しい弟子たちを持って幸せダナァ」と全く、微塵も、これっぽっちも心の籠もっていない台詞を吐いて巽に財布を握らせた。


「十一号館の六階にある第三講義室だと思うから」


 ――十一号館。

 うっかり聞き飛ばしそうになったが、先程巽と一緒に様子を見てきたばかりの棟ではないか。


「大学開いてるんすか?」

「院生やゼミ生が泊まり込みで実験している棟もあるからね、この時間なら正門と東門が開いているよ。十一号館は理工学部の研究室があるからいつも遅くまで人がいるし大丈夫でしょう。二十三時になったら閉じちゃうけどね」

「おい」


 巽が思わず敬語も取っ払って突っ込んだ。

 大学までの距離を考えれば一時間もあれば余裕で行って帰れるが、大学の南にあるこの家から西側の正門まで回りこんで、さらに広大なキャンパスのど真ん中にある十一号館まで向かってとなるとさすがに面倒だ。

 使いっぱしりにしている自覚はあるのか、師匠は鷹揚にうなずく。


「ついでに帰りにコンビニで好きなアイスを買ってきなさい、三人分」

「やったー! ダッツ買っていいですか!」

「ハハハ、次の心霊スポット巡りが楽しみだなぁ」


 副音声で「ダッツを買ってきやがったら次のオカルトツアーは最恐スポットを厳選して秋津くんをひとり閉じこめて帰るね」と聴こえた。明確な脅しである。


「……ピノにします」

「秋津くんは控えめダナァ。もうちょっと厚かましくなってもいいんだよ?」

「ピノでいいです」

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