e これ以上不安要素を増やしてなるものか
昼以降、雨は降らなかったようだが、空気いっぱいに湿ったにおいが満ちていた。足元もまだ少し濡れており、街灯の橙色の光を反射してアスファルトがきらきらしている。
空には分厚い雲がかかり星もなかったが、街灯や住宅の灯かりのおかげで足元に不自由はない。
ひとまず最短距離を早足で幸丸大学へ向かうと、師匠の家からいちばん近い南門はすでに閉門していたが、大学の外壁に沿って回りこんでみれば確かに正門が開いていた。
西日本屈指の学生在籍数を誇り、日中は学生が溢れかえっている私立幸丸大学鹿嶋キャンパスは、まるで昼間とは別の場所のように静まり返っている。
学内に申し訳程度に設置された電灯が足元を照らしているものの、校舎の電気はほとんど消えていた。
キャンパス中ほどにある十一号館に辿りついてから見上げると、上の階は電気がついている。
時刻のせいで昼間にきたときよりも陰鬱に見えるが、相変わらず変なものがいそうな気配は、綾人には感じられない。
入口の自動ドアはすでに電源を切って施錠されていたが、すぐ脇のドアは開放されていた。
本当にこんな時間に校舎に立ち入ってもいいのかと、常識的なほうでビビリを発揮していると、横にいたはずの巽が後ろで立ち止まる。振り返って手招くと、彼は首をひねって「なあ」と眉を顰めた。
「なんも感じんか」
どきり、と心臓が跳ねる。
「こ……怖いこと言うなよ。何もないだろ、大学だぞ、昼間だって特に感じなかったし」
「大学だからなんも出ねぇってことはねぇだろ。初めて会った日だって、お前追っかけられてたじゃねぇか」
反論できなかった。
確かに視える人たちにとっては昼も夜もなければ夏も冬もなく、場所の制限もない。心霊スポットとして挙げられている場所でなくともいるときはいるし、普通に過ごしている人にも何かが纏わりついていることはあるものだ。
だが怖いものは怖いのだ。ただでさえ夜の学校ということで怯えているのに、これ以上不安要素を増やしてなるものか。
「なんかあるって思ったら怖くなるだろ! なんもない!」
「……つくづく不思議なんだがお前、そんだけビビリでよく師匠に弟子入りしたよな……あれだけ止めてやったのに……」
呆れまじりの表情になった巽とともに、気を取り直して十一号館の校舎内に足を踏み入れた。
綾人よりも見鬼の強い巽が違和感を抱いたのだとしたら、何かがいる可能性はじゅうぶん高い。しかし改めて辺りを見渡してみても、昼間と同じように、長居したくないなとは感じるが凄まじい恐怖を憶えるほどではなかった。
しばらく廊下を歩いて、突き当たりにエレベーターを見つけても、足音が増えたりはしなかったし「なにしにきたの」と訊かれることも白い人影が過ぎるということもなかった。
巽も首をひねったのは最初の一歩だけで、あとは特に感じないようだ。
「六階だったよな」
「ああ」
一階に降りていたエレベーターに乗りこみ、六階のボタンをぽちりと押す。なかは電気がついていたのでひと心地ついた。
「六階の……第三講義室だっけ? 俺ここ入るの初めてなんだけど、巽は来たことある?」
「いや、ねぇな。ここに講義室があるってのも初耳だ」
扉上部の階数表示が順調に上昇していくのを眺めていると、六階のランプがついて、しばらくしてからゆっくりと止まった。動いている最中もがこがこと嫌な音がしていたし、やはり古いだけあるのだろう。
十一号館は基本的に大学の事務部が占めている校舎で、上の階にある講義室や研究室は大体理工学部が使用するため、文学部の綾人たちには縁がない。
エレベーターを降りると正面と右手側に廊下が伸びていたので、まず右に進み、足元の非常灯を頼りに講義室の表示を確かめながら歩いた。
研究室一、研究室二。突き当たりを左に折れると、研究室三、四と並ぶ。
「ないな、第三講義室。エレベーター降りて真っ直ぐ進んだ方が近かったかな」
迷子になりながら第三講義室を捜すことしばらく、ふと、巽が足を止めた。
「ねぇぞ、第三講義室」
「まだ一周してないじゃん」
「いや、戻ってきた」
ひく、と顔が引き攣るのがわかった。
巽が指さす先には、先程降りたばかりのエレベーターがある。
どうやら巡り巡った結果、正面に伸びていた廊下まで戻ってきたようだった。
「じゃああれか、A館みたくドーナツ状だったとか」
「外観思い出せ。ロの字型の造りをするほどでかくねぇだろ、この校舎。大体一階でエレベーターに乗ったとき、横に廊下なんかあったか?」
「もおおおおやめろよ怖いこと言うな!!」
途端にどこどこ脈打ちはじめた心臓をぎゅっと押さえつつ、弱々しく巽の膝裏を蹴りつける。
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