c 健全で真っ当なコミュニケーション能力
その日の講義を終えた綾人は、ひとり本部キャンパスへ向かった。
ツイッターの騒ぎの真偽が気になったからだ。本当に飛び降りる者がいるとしたら、恐ろしくて今後この棟で開講される講義は受けられない。
物心ついた頃からヒトではないものが視えていた綾人は、両親や弟妹に多少の心配と迷惑をかけつつも、視て視ぬふりを心掛けることでなんとか成長してきた。完全に問題なしというわけではなかったが、恐ろしいものは視ない、聴かない、近寄らない、そのスタンスを長年貫くことで身を護っている。
しかし先日より師に弟子入りして、ある程度の対処法なども教わったため――あまり参考にならない方法も多かったが――こうして行動に移す勇気も、僅かながら出てきていた。
キャンパスの中心部にひっそりと佇む十一号館は、建物自体がそこそこ古く、周囲に新しい校舎が聳えているせいで日当たりが悪い。陰気な感じがするからあまり近寄りたくないなとは思ったが、それだけだった。
校舎の周りをぐるりと一周してみたが、飛び降りがあった痕跡すらない。
綾人の認知できる限りでは変なものもいないように思われる。
上を見上げて窓を数えてみると、六階までしかないようだ。隣にある三十三号館は本キャンでは最も新しい校舎だが、そちらは十階以上ある。比べてみるといかにも古めかしい。
しばらく待ってみたが、飛び降りるものもいない。
綾人と同じように十一号館を見にきた学生も何人かいた。やはりそれなりの数の学生があのツイートを見たらしい。
「おまえも来たんか」
後ろから声をかけられて振り返ると、見慣れた金髪美形が立っていた。
「巽。まあ、変なのいる校舎なら近寄りたくないし、下見程度に」
「あからさまに飛び降りるようなのはいねぇな」
隣に立った巽も綾人と同じように校舎を見上げる。師匠に連行される心霊スポットなどに比べればきれいなものだ。
どこか消化不良な後味の悪さはあるが、やはりただの悪ふざけだったのだろう。
「……なんか視えるか?」
巽の見鬼は綾人よりも少し強い。
綾人には視えていなくても巽には視えるという可能性はじゅうぶんにあるが、彼は首を横にした。
「なんか陰気な感じがぐるぐるしてはいるが、それだけだな。あんま近寄りたくねぇけど、入れないって程でもない」
「だよなぁ。ま、なんもないならそれでいいか」
あまり長居するのも不審なのでその場を離れて、二人で師匠の家に向かうことにした。
師匠の家は本キャン南門から向かうのが近いが、遠回りして正門近くのコンビニでお菓子を購入する。あの屋敷には常にコーヒーや紅茶などの飲み物と焼き菓子が常備されているが、ポテトチップスなんかのスナック菓子は師匠が好まないので、自分たちで調達していくことになっているのだ。
昨日から降り続いていた柔らかい雨は昼過ぎに上がった。
慎重に水溜まりを避けて、我らがお化け屋敷への道を辿りながら、ふと今まで黙っていた疑問を口にする。
「師匠の右目ってどうなってんだろうな」
あの風変わりな人の右目は、常に絹糸のような黒髪に覆われていた。
五月の中旬に弟子入りしてからひと月と少し経ったが、あの防御壁が崩れたところを見たことがない。
巽は少し唸った。
「……あの人のことだからただのファッションってわけじゃねぇだろうけど」
「あれじゃ右だけ視力落ちそうだよなぁ。なんか理由でもあるのかな。あとで訊いてみようか」
「訊いたところで教えてくれると思うか?」
師匠は綾人がこれまで出会ってきた人々の中でも断トツの変人である。
オカルト関係やどうでもいい薀蓄は流暢に語るし、綾人や巽をくどくどと貶しからかい莫迦にするが、師匠本人のことに関しては口が重い。訊けば答えてくれるが、訊いてくれるなオーラがすごいのだ。そして答えたくないことに関しては煙に撒かれてしまう。
「まあ答えてくれないと思うけど」
「だろう」
「でも訊くだけ訊いてみようぜ。口に出してみないとなんにも解らないままだろ。答えてくれなかったら、答えたくない理由があるってことだし」
「…………」
隣の巽がいきなり黙った。
何か変なことを言っただろうかと恐る恐る見上げると、巽はいつもの仏頂面で綾人を見ていた。
「な、なんだよ」
「いや。お前、すごいな」
「なに急に。気持ち悪い」
「なんかこう……健全で真っ当なコミュニケーション能力だよな。俺も師匠も持ち合わせていない類いの」
何がなんだか解らないが褒められているようだ。
うんうんうなずいている巽に首を傾げているうちに、お化け屋敷が見えてきた。
師匠の住む洋館は、綾人たちの通う幸丸大学から徒歩十分の閑静な住宅街のなかに、真っ昼間でも異様な雰囲気を纏わせながら聳えている。
ご近所から「お化け屋敷」との呼び声高い家の外周は、瀟洒なデザインの黒いフェンスで囲まれており、門扉の向こうに広がる庭は恐ろしく広い。草花や雑草が生えるがままとなっているのは、時折この屋敷を訪れる肝試しのガキどもに雰囲気を提供するためだという。
呼び鈴を押したが師匠は出てこなかった。
不在の際は勝手に入ってよしと懐のおおきな指示を頂いているので、巽が預かっている合鍵で堂々とお邪魔する。
「まさか彼女ができるより早く他人の合鍵をどうこうすることになろうとは」
「言うな。女の家よりはるかに豪華な合鍵だぞ」
この洋館の二階には、何かがいる。
綾人も巽も直接まみえたことはないし、師匠は面白がって何がいるのか教えてくれないので詳細は知らないが、夜になると誰もいないはずの二階の一室に灯かりがついて、黒い影がじっと窓際から外を見下ろしているのだ。
そのため玄関ホールで「お邪魔しまーす」と一声かけてから、いつも入り浸っている書斎へと向かった。
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