b 彼岸の飛び降り
巽は『たけくらべ』に視線を落とし、綾人は液晶が割れた可哀相なスマホでパズルゲームを始める。
黙々とそれぞれの手元に集中していると、巽とは逆隣の椅子に友人が着席した。
「おはよう綾、巽!」
「はよ、千鳥」
朝から純度100パーセントの爽やかな笑顔であいさつされて、思わず目を細めてしまう。
綾人の高校生の頃からの相方の間宮千鳥だ。入学して一ヶ月で学科中のやつの友だちになったのではと思うほど人懐っこく、顔が広い。
教室中の湿気を吹き飛ばすような、すっきりとした千鳥の笑みに覗くちいさな八重歯を見ていると、しきりに梅雨の滅亡を祈っていた矮小な心がゆるゆると柔らかくなっていく気がした。
最近はすっかりこの三人で行動するのがふつうになっている。
とはいえ千鳥に見鬼はなく、綾人と巽が彼岸の世界を視ていることも、師匠に弟子入りしていることも知らない。
俺たち幽霊(を含めた色んなもの)が視えるんだー、と告白したところで「へー!」と笑って流してくれるだろう。きっと変に絡んだり気味悪がったりせず、ありのまま受け止めてくれるに違いない。そう思ってはいても、いまいち口が重いのが現状だった。
「なぁ、昨日のツイッターの騒ぎ、知ってるか?」
千鳥は鞄から筆記用具とスマホを取り出すなり、アプリの画面を開き始める。
「ツイッター? なんかあったっけ?」
「ツイッターやってねぇ」
巽はスマホ持ちのくせにラインもツイッターもやっていないし、フリップ入力もできない男だ。携帯電話は電話ができてメールができて、写真が撮れて目覚ましがついていればそれでいいと平然と言い放つやつである。じゃあなんでスマホにしたんだと声を大にして訊きたい。
綾人の方はアカウントも持っているしそれなりに眺めている。
「なんかな、うちの大学の十一号館から飛び降りがあったって、すげぇ騒ぎになってたんだよ」
「飛び降り? 昨日?」
「穏やかじゃねぇな」
眉を寄せた巽が本を閉じて、千鳥の示す画面を覗きこむ。
早速一連をまとめた画面を誰かが作ったらしく、千鳥が見せてくれたのはそのページだった。
確かに、綾人らの通う幸丸大学の学生と思しきアカウントが『ユキ大十一号館で飛び降りだって』とつぶやいている。
それを皮切りに様々なアカウントが『掃除のおばちゃんが飛び降りた』だの『救急車来てる?』『自殺?』と続いていた。ただし直接の目撃証言や写真などは上がっておらず、『でも十一号館の周り誰もいないよ』というつぶやきを最後に、騒動は収拾したようだ。
最初のつぶやきの時刻は午後五時。
綾人も巽も、A館で講義を受けていた頃だ。
「……でもサイレンの音はしなかったよなぁ」
「いくら十一号館が本キャンだからっつっても、救急車が来たら音でわかるだろ」
幸丸大学の鹿嶋キャンパスは、市道を挟んで本部キャンパスと第二キャンパスに別れている。A館は二キャン、十一号館は本キャンだが、さすがにサイレンも聴こえないほど離れた距離ではない。
なんともいえない気持ちで綾人は首を振る。
「デマだろ。なんでこんなことしたのかはわかんねぇけど」
「おれもそう思うけどさ、なんか気味悪いよなぁ。だってこれだけの人間がデマに喰いついて、最終的に『ユキ大十一号館から掃除のおばちゃんが飛び降りていま救急車来てる』ってとこまで、シチュエーションが決まっちゃってるんだぜ」
千鳥は不思議そうに首を傾げた。
「なんでみんな真に受けちゃったのかなぁ?」
改めて画面を見る。
誰も彼も『飛び降りらしい』という伝聞でのつぶやきだ。その後は自殺なのか、誰が飛び降りたのかなどの推測が疑問符つきで飛び交っている。恐らくはその推測の流れが勝手にそれらしい話を作ってしまっただけで、実際にはそんな事件はなかった。
だが――綾人は試しに自分の手元で『飛び降り』と検索してみる。
『昨日のユキ大飛び降りって結局どうなったの』
『ほんとに飛び降りあったの? よくわからなくて気味悪い』
昨日ほどの盛り上がりはないようだが、今日になってもぽつぽつとそんなものが散見された。
実態のないつぶやきが作り上げた虚実は、学生たちの心に消化しきれない不安として、確かに残っているようだった。
事実はない、だがデマだという結論もない。
ただ後味の悪さだけがまだ残っている。
黙って綾人と千鳥が開く画面を眺めていた巽が身じろぎ、「もしかしたら」と小さく零した。
「もしかしたら、最初のやつは視たんかもしれんな」
「見たって何を」千鳥がこてんと首を傾げる。
綾人には巽の言いたいことが解っていた。
最初のつぶやきをした人も『飛び降りだって』という形であるからには、誰かから聴いた話なのだろう。するとその話をしたいちばんはじめの人は、偶然なんらかの条件が合致して、目撃してしまったのかもしれない。
「飛び降りを」
――彼岸のものが落ちていく、瞬間を。
「……やーだなー巽、そんなオカルトな! 幽霊の飛び降り? デマよりそっちのほうが怖えぇよ」
からっと笑い飛ばした千鳥が、間の綾人を避けて巽の肩をバシバシ叩く。
巽も綾人も「そうだよな」と大声で肯定できなかったので、「ハハハ」と乾いた笑いを浮かべるにとどめた。
師匠と同じ笑い方だと気づいたのは、教授が教室に入ってきてからだった。
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