その二、十一号館七階の怪
a 梅雨など滅びてしまえばいい
世界には層がある。
それは、秋津綾人が大学時代のいっとき師事していた人に教わったなかでも、殊更肝要でおおきなものであった。
師匠はかつて、蒔絵細工の施された漆塗りの扇子の親骨を開いたり閉じたりしながら、このように教えた。
「我々人間が住む層のほかに、何十、何百もの層が幾重にも折り重なり世界ができている。人間の住む一層以外は全て、『ヒトではないもの』――幽霊や妖怪や何やらかんやらよりあと神霊に至るまで全ての者の棲家です」
「そしてそれらはほぼ全ての普通の人間には感知することができない。生きている層が違い、波長が違い、チャンネルが違うからです。ある一定の者を除いて、基本的にそれぞれの層を生きる者は同じ層の者しか視覚として認知できない」
「例外がぼくらだ。俗に言う『霊感』持ちのぼくたちは、自分たちの生きている波長をほかの層に近づけることが無意識に得意なんです」
「つまりぼくらはそういう人間なんですよ。ほかの普通の人たちよりもちょっとだけ、そうでないものに近いところで生きている、というね」
『霊感がある』というと、いかにも人の形をした幽霊が視えるということを指すようで、綾人は昔から違和感を抱いていた。
大学に入学する以前の綾人にはっきりとした人型の霊を視るような能力はなく、黒や白の靄、手足だけが視えるか、あるいは囁き声が聴こえるかといった程度だった。師匠らと付き合ううち否が応でも色々なものに遭遇することになっていったが、基本はそんなものである。
だから師匠のその教えを聴かされたとき、自分でも不思議なほどすとんと頭に落っこちてきたものだった。
世界には層がある。
人間の生きる層を此岸と呼び、それ以外の全ての者が生きる層を彼岸と呼び敬う。
巷に言う『霊感』を師匠は『
師匠の語る独特な教えは時折複雑で、理解が追いつかないようなものもあった。首を傾げる綾人に師匠は口の端だけで笑い、「まァよろしい」と顎を引き、どちらにせよこれはぼくに視えている世界の話ですからね、と遠くの方を見た。
「秋津くんとぼくの見鬼はレベルが違う。巽とぼくも、もちろん巽ときみもです。同じ世界を視ることはこれから先もないだろう」
ようやく出会えた、自分と同じような世界を視る人たちだった。
それでも綾人たちは同じ世界を視ることができない。
「結局、一緒にいても孤独なんですよねェ、こういう『目』を持っていると……」
パチン。
師匠が扇子を閉じた音が鋭く響く。
「それでも孤独を恐れるな。恐れを抱いた瞬間に、我々の敗けだ……」
なんでもないことのようにつぶやいた師匠の声は、あの日々から何年も経ったいまも、耳の奥にこびりついて離れてくれない。
***
梅雨など滅びてしまえばいいのに。
湿度が高くて髪の毛はうねるし、洗濯物は外に干せないし、部屋干しが何日も続くと変なにおいがしてくるし、傘差し運転は危険だから大学まで徒歩通学になるし、そうすると足元が濡れて不快だ。
髪も服も鞄もなんとなく湿気るような気がする。じめじめして気分まで陰鬱になる。黴とかキノコとかが生えてきそうになる。
徒歩十分の道のりのなか、すでにスニーカーはぐずぐずになっていた。
幸丸大学第二キャンパスの文学部棟たるA館に到着した綾人は、不機嫌を隠そうともせず、一限目が行われる二〇一教室のドアを開けた。
すでに後方に席をとっていた兄弟子、巽の隣に腰を下ろす。
「はよ」
「ああ。お前、顔すげぇぞ」
「顔?」くっきりと眉間に皺を寄せた綾人は、黒縁の眼鏡を外してレンズを拭いた。
風があって雨が斜めに降ったせいで眼鏡にも雫が散っているのだ。おかげで視界も悪くなって散々だった。梅雨など滅びてしまえばいい。雨の足りない地域にどんどん移動して、地球の平均雨量が均等になってしまえ。
「二、三人殺したような顔」
樋口一葉の『たけくらべ』を片手に、巽が綾人の眉間を指さす。
「……梅雨嫌いなんだよ」
「気持ちはわかるが眉間の皺はどうにかしろ」
綾人よりもすこし早く師匠に弟子入りしたこの巽は、一点の曇りもない金髪がトレードマークの美丈夫だ。
重めの前髪で目元が見えづらいが、誰もが認める迫力美形。一八〇センチを超える長身と、高校時代のやんちゃで勝手に鍛えられたという体のせいで、遠くからでもよく目立つし近くで見るとかなり威圧感がある。
しかも受け答えが無愛想で、進んで人と喋らない寡黙な性格のせいで、入学直後は孤高の一匹狼として遠巻きにされていた。
しかし五月、ひょんなことで綾人が巽と親交を深めたのをきっかけに、あれよあれよという間に一匹狼感は薄れてきている。
一方その横に並ぶ綾人はというと、ごく普通の顔立ちをしているが黒縁眼鏡というアイテムがあるので多少おとなしめに見える。髪は黒のままで、最近少し伸びてきた。
お互いに制服を着ていたら確実に、金髪ヤンキーが黒髪眼鏡をいじめている図に見えることだろう。
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