e あれは本当に師匠の笑い声だったのか?
「師匠……!?」
心臓のあたりを押さえて悲鳴交じりに呼ぶ横を巽がすり抜けて、勢いよく部屋の入口に飛びついた。
廊下をライトで照らし、左右を見渡して「師匠!!」と怒鳴る。
わんっ……と怒声が反響したが、返事も、音もない。
内臓が音を立てて落っこちていくような気がした。
「いつからだ……いつからいなくなった!?」
「この部屋に入る直前はいた! 後ろでフフって笑ってた……けど」
どうせまたみっともないとか思われているのだろう、と恥ずかしくなったのは憶えているがそもそも――あれは本当に師匠の笑い声だったのか?
ついさっきまで感動に丸まっていた巽の三白眼が鋭くなり、痛烈な舌打ちを零す。
「どうせまたどっか隠れてほくそ笑んでんだろ……! 捜すぞ!」
「どうせ」と言いながら「そうであればいい」と願っているのは明らかだった。綾人よりも弟子歴が二ヶ月だけ長い巽はそのぶん師匠の行動に慣れている。こういった事態も初めてではないはずだ。
震える腕を掴んで無理やり止める。
一階で「なにしにきたの」と問われた。
この建物には確かに何かがいる。それは巽の感じる漠然とした嫌な感覚であったり、師匠の視た男の子であったり、綾人の聴いた女性の声からも明らかだ。廃棄され、人の手を離れたこの建物はすでにこちら側のものではないのだ。
師匠はこちらを此岸と呼び、あちらを彼岸と称し敬った。
ここは彼岸のものの棲家。此岸の綾人たちは侵入者。彼らは侵入者が何をしにきたのか見極めようとしていた。
もしも、綾人たちには一切自覚のない振る舞いがどこかで彼らの不興を買い、その怒りが師匠に向けられたのだとしたら。
あの師匠が、声を上げる間もなく闇に呑まれたのだとしたら――
「し……師匠! どこですかー! 帰りましょう!」
脳裡に過ぎった縁起でもない妄想を振り払うように、躊躇していたはずの大声を上げて廊下に出る。絵の描かれた部屋は廊下の最奥にあったので、あとは階段に向けて真っ直ぐ戻るだけだった。
彼らに恐れを悟らせないようわざと大きな声で、足音もざかざか立てながら他の部屋を覗きこむ。
だが最上階のどの部屋にも師匠は隠れていなかった。
「どうする、下りるか?」
階段の手前で足を止めた巽が振り返る。
「音も聴こえなかったし、あの部屋に入って俺らが気づくまでの時間を考えたら下の階まで下りたとは思えないんだけどな……とりあえず一旦捜しながら車まで戻ってみるか。いなかったらまた一階から上まで捜そう」
「だな。とりあえず下りる、お前後ろも気にしてろ」
「ああ……」
師匠のことだから、ひとしきり慌てた綾人たちを見てから何事もなかったように戻っていてもおかしくない。
ちらともう一度だけ真っ暗の廊下を見渡してみると、濃い闇の中をすっと横切る影があった。
「あっ……師匠?」
「は? 秋津、待ておい」
「いま白い影が絵の部屋に入ってった」
「白!?」
ぎょっとしたような巽の声を置いて廊下を駆け戻る。
わざと高く靴音を響かせながら、夕日の絵が描かれたあの部屋の前まで戻ると、ちょうど出てきた人影にぶつかった。
「わっ」
「なんだい、やかましい足音立てて騒がしいね」
「師匠っ!!」
師匠が見つかった安堵と、やっぱり隠れてたんじゃねぇかという怒りが綯い交ぜになった綾人の複雑な声に、彼はぱちくりと左目をしばたたかせる。
師匠だ。
絹糸みたいな黒髪、隠れた右目と露わになった左目、中性的で謎めいた顔立ち、そしていつもの濃灰色の着流し。
「もおおおお!! 心配したじゃないですか!!」
「アラ珍しい秋津クンが怒ってる。……どうしたの巽、そんな疲れた顔して」
「いや……」
衿元を掴んでがくがく揺らしながら師匠の生存を喜ぶ綾人の横で、追いついてきた巽が浅く息を吐き出している。
「秋津」
「きゅ、急に師匠がいなくなるから! もしかしてここの住民を怒らせちゃったかもとか、連れていかれちゃったのかもとか、師匠戻ってこなかったらどうしようとか」
「いや、あんまり何も起こらないものだからつい驚かせたくなって。すぐそこの非常用外階段に隠れてたんだけどね」
「秋津、おい」
「もおおおお早く帰りましょう!! 心配して疲れた! 俺はもう眠いです!」
「秋津まあ落ち着け」
混乱のあまり涙目で怒る綾人を師匠は愉快そうに見下ろしていたが、しきりに制止してくる巽が気になったのか、左目の視線だけで話を促した。
巽に肩を掴まれ、取り縋っていた師匠の着物から手を離す。
おかしそうな表情で衿元を直す師匠の流れるような仕草がきれいで、先程まで爆発四散していた感情があっさりと落ち着いた。
「お前、白い影がっつったな」
「え? うん、白い人影がすうってこの部屋に入ってったから。師匠しかいないだろ」
「そうか。白な。俺には視えなかったんだが……」
巽が見ていなくてもおかしくはない。廊下を振り返った綾人に対して、巽は階段を下りようとしてそちらを向いていたのだ。
ここで綾人はようやく巽の様子がおかしいことに気がついた。
蒼い顔して口の端を引き攣らせている。師匠が見つかったいまになってもそんな表情をしているのだ。
そういえば巽は綾人が走りだしたあのときから、「白」という単語にひどく狼狽していた……。
何をそんなにしつこく確認しているのだろうと眉を寄せ、師匠を見て、そして悟る。
師匠の着物は濃灰色。
スマホのライトを向けなければ容易に闇に溶け込むいろだ。
暗闇を湛えた廊下の先に見えた人影のように、白く浮かび上がることなど有り得ない。
「あ」と師匠の声がふと零れた。その顔は部屋の入口に向いている。よせばいいのに綾人も巽も反射的にそちらを見てしまった。
入口を白い影が横切る。
ぱきん、と高い足音が鳴る。
ぱきん、ぱきん。廊下の先へ遠ざかっていく。まるで、女の人の軽やかな足音みたいな――
「…………」
ざああああっ、と音を立てて血の気が引いていった。
「「ギャアアアア!!」」
「いやァ、最後にいいもの視たね」
「何がいいものだブン殴るぞこの変態師匠が!!」
「もう帰る!! 俺は帰る!! 師匠を置いてでも帰る!!」
「落ち着きなさいよきみたち。免許持ってんのぼくだけでしょ」
「「帰るったら帰るッ!!」」
***
物心ついた頃からヒトではないものを視ていた秋津綾人は、大学時代のいっときを、ご近所から「お化け屋敷」との呼び声高い洋館に住む着物姿の男に師事して過ごした。
弟子入りしてからというもの、耐性をつけるのだという名目で心霊スポットに連行されたり、曰くつきの呪いのビデオを見せられたり、死ぬほど怖い話を聴かされたり、たまに知り合いから持ち込まれるオカルト関係のトラブルをちょっと無理やり解決したり、慌ただしく『彼岸のもの』への対処法を学ぶ日々――
これはそんな綾人たちの過ごした、恐ろしくもまばゆい、二年間のお話。
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