d 落書きのある心霊スポット

 隣の部屋もその隣も、最初と同じく荒れ果てていたが、綾人たち以外の何者かが原因と思われる物音や声はそれ以降発生しなかった。

 ただひたすらに暗く、狭い廊下を、たまの軽口で気を紛らわしながらずんずん進む。


 不安に駆られてたまに振り返った。

 三つのはずの足音が、壁に反響して何人ぶんかはっきりしないくらい重なって聴こえることがあったからだ。

 そのたびに師匠は薄く微笑んだ。巽の持つライトは進行方向を照らしているから、闇に紛れてその表情はよく見えなかったが、ただ微笑む気配だけがあった。


 ホテルは五階建てで、師匠の言う二つめの目的である見事な落書きは最上階にある。

 二階や三階の廊下の壁にも、スプレーや油性ペンで描かれた絵はいくつかあったが、どれも子どものお絵かきみたいな稚拙なものだった。肝試しに訪れた連中がおふざけで残したものだろう。名前や電話番号、日付みたいなものが多い。


「落書きのある心霊スポットっていうのは結局、有名で、人が集まっている場所でもあるという証明なんだよね」


 師匠は四階の一室で立ち止まり、赤いスプレーで書かれた文字に指を這わせてそう言った。

『かえれ』。お世辞にも達筆とはいえないその平仮名を、白い指でつつつと辿る。

 雰囲気を煽りたくてこんな言葉を書いたのだろうか、だがスプレーなんて現代感満載の道具で書かれてもなぁ。そんなことを考えられる程度には、このホテルの空気に怯えつつも、慣れはじめていた。


「落書きをする心の余裕を持てる程度の場所である、ということ。周辺地域の治安や、落書きしやすい広い壁があるかどうかも関係してくるけどね。逆に心霊スポットとして有名で、立地的に条件を満たしていながら落書きの一切ない場所なんかは……」


 指先が、壁を引っ掻く。

 剥がれた壁紙がぱらぱらと師匠の足元に落ちた。汚れた指先を擦り合わせながら、彼はその先の言葉を呑みこむ。


「……最上階に行こうか」


 こちらもだいぶ慣れてきたらしい巽が目を細めた。


「“一切ない場所なんかは本気でヤバイ”……ですか」


 師匠は答えない。ただ思わせぶりに目尻と口角を上げるだけだ。こういう反応はたいてい是なのだ。

 解釈のしようによっては、つまりこのホテルは大したことがない、ということになる。これまで突撃した心霊スポットではドアが勝手に閉まって部屋に閉じ込められるわ黒い影がバンバン出るわ足首掴まれるわ散々だったので、まだ音しか聴こえていないこの場所はよく考えればかなり平和だ。

 巽もそう開き直ったらしく、最上階へ向かう足取りからは怯えが消えていた。


 視界が不自由なぶん、どうしても聴覚が鋭敏になる。


 ざり、と石くれや破片を踏みつける音。

 潜めた巽の呼吸。

 師匠の着物の衣擦れ。

 風に、山の木々が揺れる。


「これで最後の部屋か」


 巽のその声に、自分が息を止めて耳をそばだてていたことに気がついた。

 はっ、と大きく深呼吸した綾人の後ろから師匠がフフと笑う気配がする。うう、笑われている。またみっともないとか思われているのだろう。

 前を行く背中を追いかけて部屋に入ると、これまでの荒廃ぶりはとんと消え、床に何も転がっていない殺風景な光景があった。襤褸のカーテンも、破れたマットも、家具の類いもない。ただ窓際に割れたガラス片が散乱しているだけだ。



 そして壁一面には、赤い海が広がっていた。



「おお……」思わず感嘆の声を洩らしながら、自分のスマホを取り出してライトをつける。

 巽のものと合わせてようやく全容が見えるようになった。


 恐らくはこの部屋の窓から見下ろした風景だろう。

 暗い翳を落とす山々の向こうに、太陽を呑み込んで橙色に染まった海。夕陽の熱や海風まで感じてしまいそうなくらい、温度をもつ絵だった。もはや落書きの範疇ではない。

 なぜこんなところに、こんな見事な絵が。


「すごいな。これ、廃墟になってから描かれたのかな」

「だろうな……。秋津、俺はなんだか感動している……」


 わざわざ言わなくても、いつも三白眼の両目が真ん丸く見開かれているのを見れば解る。

 だがわざわざ口に出して言いたくなる気持ちも理解できたので、「俺もなんだか感動している」とあほみたいな返事をしておいた。


「これって絵の具……? スプレーかな」


 美術館では展示品に手を触れてはならないというマナーを思い出して気後れしたが、絵を傷つけないよう細心の注意を払いながら手を伸ばし、指の腹で壁を撫でた。

 ざらついた感触が指先に伝わると同時に、ふと脳裡に想像が湧き立つ。



 西向きの窓から見える夕焼け。

 沈んでゆく太陽を音もなく見つめる女性の横顔、黒髪、白い肩。

 赤い夕焼けの次の日は晴れるんだって。と微笑む、まろい声が好きだった。彼女のすくみ笑いだけで胸の奥がぽかぽかする。その声も、微笑みも、幸せの象徴そのものだった。

 何をするでもなく、ただ二人並んでぼんやりと暮れなずむ景色を見下ろした、穏やかにもまばゆい、遠い思い出。



 この映像が綾人の勝手な妄想なのか、それともこの絵が抱く確かな思い出なのか、知識もなければ耐性もないビビリ野郎には解らない。

 ただきれいだと思った。

 この夕焼けの絵も、勝手に思い描いたあの景色も。


「……『なにしにきたの』って訊かれたんだった」


 ぽつりと零すと、絵に見入っていた巽の視線がこちらに寄越される。


「この絵を見にきたんだ。……きれいだね、とても」


 横に並び立つ兄弟子へ向けた言葉ではなかった。それが解ったのだろう、巽は無言で夕焼けの絵に向き直る。

 しばらくここが心霊スポットであることも忘れて見惚れたところで、ようやく綾人は師匠の存在を思い出した。この見事な絵のために最上階まで来たというのに、あの人は先程から一言も喋っていない。


「師匠っ、すごいですねこの絵!」


 振り返ったそこには、闇だけが在った。



 ――いない。



「し……しょう……? あれ?」


 夕陽の絵の見事さに緩んでいた気分が一息に凍りついていく。師匠がいない。

 慌ててライトを動かし、部屋の隅から隅、天井や床まで照らすが、着物の袖口に腕を突っ込んで飄々と笑っているはずの師匠はどこにもいなかった。


 あるのは濃い光に照らされて浮かぶ翳だけだ。


 最初にラップ音未満の足音と声が聴こえただけで、あとは何もなかったから油断していた。

 ここは本当にヤバイ場所ではないがハズレでもない、場所なのだということを失念していたのだ。

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