c 「なにしにきたの?」
最初に覗きこんだ部屋はひどい有様だった。
カーテンは風化して不気味に垂れ下がり、割れた窓ガラスが床に散乱している。朽ちたベッドからはスプリングが飛び出していた。壁紙はべろんと剥がれ落ちて、これまで肝試しにきた連中の落書きがぽつりぽつりと残されている。
スマホのライトが白く明るいぶん、部屋に落ちる翳は深い。
爪の先から飲まれて消えそうな暗闇が怖くて、暗いのが怖い自分が情けなくて、震える指を握りこんで耐える。こうして深夜の心霊スポット巡礼ツアーに繰り出すようになってから、闇にも質量があると、感じるようになった。
高みの見物を決めこむ師匠が部屋の入口に待機したのを背に、巽と二人で部屋の中に足を踏み入れる。
いざとなれば巽を犠牲に逃げる所存でひっついていたら「暑苦しい」と拳骨をくらった。さすが元ヤン、けっこう痛い。
「なんかいる……?」
「視えねぇけど、建物全体なんか嫌だなって感じはするな」
巡礼ツアーをしていれば当然ハズレもあるものだ。
綾人たちの場合は師匠が厳選して本物を選んでくるので滅多となかったが、世の中には本当に何もないハズレの場所が一定数存在する。
レベル4の綾人でも、本当にヤバイ場所なら近づいただけで肌が理解する。綾人たちはそういうところにはそもそも近寄ることすらできないのだ。こうして多少の抵抗と恐怖に足を引っ張られつつも歩くことができるのは、ハズレではないが本当にヤバイわけでもない、という証左に他ならない。
例え本当にヤバイ場所であっても後ろの変態師匠は躊躇わないのだがそれはそれとして、この部屋は特に何もなさそうだ。
ゆっくりと息を吐いて、ガラスの破片を踏まないように後退していく。
ぱきんっ……
廊下に反響したその音にばっと振り返ると、着物の袖口に両腕を突っ込んだいつものポーズの師匠がにこりと笑った。
この笑顔。
違う。師匠じゃないんだ。綾人たちの足元や、室内で発生したものではなかったように思う。
もっと遠くから響いてきた、微かな、足音。
綾人たち以外の誰かの――
「ししししし師匠!」
「しが多いよ。なんだい秋津クン」
「こここここ先住の方はおられないんですよね? いまの、もしかして他の肝試しの人とか?」
「こが多いよ。だったらいいねェ」
願望かよ!!――と突っ込みたいのはやまやまだが、この静まり返った廃ホテルで大声を出すのは憚られる。
師匠は廊下の先へ視線を投げた。中性的で謎めいた顔立ちの彼は、その顔の右半分を長い前髪で覆い隠している。覗く左目だけがゆっくりと細められ、薄い唇は弧を描いた。
「人目を避けるものの棲家になった、と言っただろう。家なき人々、居場所なき子どもたち……あくどいことを考える連中、或いは罪を犯して表の世界から逃げるものも含めて、人に見られたくないと考えるものの、ね」
「そ、それってつまり犯罪者……!?」
「廃墟は人が来ないこととニアイコールだ。そういう意味も含めて、だから廃墟系の心霊スポットには近寄らないほうがいいと言われている。あとまあ単純に倒壊のおそれもあるし」
「めちゃくちゃ現実的にヤバイじゃないですか」
先程までとは違う意味でぞっとしつつ、師匠のもとまで駆け戻る。
物理的でないものに遭遇するのも御免だが、生きているものに出会うのもそれはそれで恐ろしい。
「だって師匠いま聞こえましたよね? ぱきって、音しましたよね! 誰かいますよね絶対!」
「したねぇ。さっきの男の子以外はいまのところ何も視てないけど、さすが有名どころって感じだね」
「あああああやっぱそっちなんだ! もおおおおやだやだめっちゃ怖い帰ろうよ師匠」
「ハハハ。無理やりお化け屋敷に連れて来られた彼女みたいな台詞だね」
「ハハハじゃなくて師匠!」
「なにしにきたの?」
「何しに来たって事実確認でしょ! もういいじゃないですかあんな音がしたんだから!……って」
はっ、と息を呑んだのは、巽の顔が蒼褪めたからだ。
師匠の着物を引っ掴んでがくがく揺さぶっていた綾人は勢いで返事してしまったが、来訪の目的を訊ねてきたあの声は、師匠のものでも巽のものでもなかった。
どこか舌っ足らずで、高くまろい……女の人の声だったような。
巽がじりじりと綾人から距離をとりながら、口の端を引き攣らせる。
おい待て兄弟子、なんだその幽霊を見たような顔は。
「秋津お前、いま……誰に返事したんだよ……」
「だだだだ誰って『なにしにきたの』って言われたから、え、あれ巽の声?」
「俺が訊くわけねえだろあほか」
確かにそうだ。恐怖のあまり支離滅裂なことを訊いてしまった。
ガタガタ震えながら衿元に縋りつく綾人を、師匠は呆れ交じりに引き剥がす。
「あのねぇ、まだラップ音未満の足音と声が聴こえただけじゃないの。この程度でぎゃあすか騒ぐんじゃないよみっともない」
ひどい言い草だ。
「いつも言っているだろ、きみはこれまでの人生であれらと関わることを極力避けてきた。その結果がこれ、知識もなければ耐性もない、視えるようになって二年のぺーぺーの巽と大して変わらないビビリ野郎」
ぐさぐさと師匠の言葉の凶器が胸に突き刺さる。
そりゃ、ビビリ野郎は否定できないが、そんな言い方しなくても。
「解らないから怖いんだ。慣れていないから怖い。なら場数を踏んで、慣れて、対処法をその身に叩きこむ。そうでないとこれから先やっていけないよ。自分でも解っているから、文句言いながらもついてくるんだろ?」
「ううっ……」
「さァほら行った行った」
そう。
秋津綾人がこの人に弟子入りした一番の目的は、これから先を生きていくうえで最低限必要な対処法を習得することにある。
意思疎通ができなくても、触れることができなくても、人間の形をなしていなくても、なぜだかあれらは綾人が視えていることに気づいて追いかけてくることがあった。これまでは寺社仏閣に逃げこむことで事なきを得ていたが、そうそう都合よく神域が周りにあるわけではない。自分の手で対処する力が必要だった。
例えば家族や友人が巻き込まれてしまったとき、ただ逃げ回るだけの臆病者のままではいられない――。
師匠に背中をぽんぽんと叩かれ、泣く泣く次の部屋を目指した。
「……なんで俺こんなことしてるんだろ……」
「弟子入りした五月の自分を恨みな」
「俺のばかやろう」
「だから言ったろ」綾人の弟子入りに際しては最後まで強固に反対していた巽が呆れた顔になる。
「命いくつあっても足りんって」
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