b 斜め後ろをついてくる

 物心ついた頃からを視ていた綾人は、それらは本来視てはならないものなのだと、紆余曲折あって小学生くらいのときに気づいた。

 我ながらちょっと遅いとは思うのだが、如何せん周りにそういう耐性のある人がいなかったのだ、致し方あるまい。


 それらはたいていの場合、視界に入るだけで意思疎通などできなかった。

 言葉を交わすことも触れることもできないし、なんならマンガや小説なんかでよくあるように、はっきりと人間の形を模していることのほうが珍しかった。

 つまり綾人にはそれらの生態がいまだによく解らない。よく解らないものは当然怖い。怖いものには近寄らないのが一番だ。

 色々問題はあったが、このスタイルを貫くことで、どうにかこれまで生きてきた。


 だというのに何をどう間違ったか大学一年の五月、積極的に怖いものに近寄っていくスタイルの師匠のもとに弟子入りしてしまったのである。

 ――その契機となったこっくりさん事件についてはまたいずれ。


 つまり何かというと、秋津綾人は基本的に怖いのが苦手なビビリのチキンなのである。


「たたたたた巽」

「たが多い。なんだよ」

「なんかいる? 視える? 気配ある?」

「うるせえ俺に訊くな」


 巽の返答はごく素っ気なかった。なんのことはない、元スーパーヤンキーのこの兄弟子とて、怖いものは怖いのである。


 当然だが、とうの昔に閉鎖されたホテルだから人の気配はない。

 安物の懐中電灯が点灯三分でお亡くなりになったので、いまは巽がスマホのライトで辺りを照らしながら進んでいる。ちなみに綾人は以前訪れた心霊スポットで、ラップ音にビビッてスマホを落とし液晶を割ったため、こういうときは絶対にスマホを手に持たないと決めていた。

 大学の入学祝いに買ってもらったばかりのスマホ。あれはショックだった。ああ、思い出したら泣けてきた。


 この廃ホテルは心霊スポットとして有名になりすぎて、マニアや興味本位の肝試し連中が全国から訪れるらしい。

 正面玄関はさすがに封鎖されているが、裏手の非常用出入り口から中に入ることができた。半開きになっていたそのドアの隙間からこっそりお邪魔していく。

 扉はそのまま客室フロアの廊下につながっていた。

 巽はライトで壁や廊下の先を照らしながら、一歩ずつ、何か異変があればすぐUターンして帰れるようにゆっくりと進んでいく。

 人ひとりが通るので精一杯という狭い廊下が真っ直ぐ奥まで続いていた。現代の建築ならほとんど忌避されそうな狭い造りに、場違いにも時代を感じてしまう。向かいから誰かが歩いてきたらすれ違うのも大変だろう。


 向かいから……。

 いや、来るわけない。大丈夫だいじょうぶ。


 自分の想像にぞっとしながら心臓のあたりを押さえていると、最後尾を優雅に歩く師匠が口を開いた。


「こういうホテルって、高度経済成長期にばんばん建てられたんだけどね……」


 師匠の、高くもなく低くもない、不思議な声が静寂に反響していく。

 光源の乏しい視界に、ひとまず怪しいものが映っていないことに安堵して、師匠の解説に耳を傾けた。


「八〇年代から九〇年代にかけてのバブルに乗って、日本全国でホテルや旅館は大型化した。しかしバブル崩壊とともに、銀行の破綻や旅行客の減少で廃業するホテルが続出したわけだ。温泉地のホテル街ですらそんな状態なんだから、こんな山奥の休憩所なんて言わずもがな……」


 師匠はどこか神秘めいた外見とは裏腹に饒舌なほうだ。こうして、心霊スポットやオカルト現象に関係あることもないことも、色々な話を聞かせてくれることが多かった。


「解体するにも莫大な費用がかかるため多くのホテルは廃墟となり、所有者と連絡がつかなくなり、そのまま放置され、廃れた外観のおどろおどろしさから根も葉もない噂が流れて、やがて人目を避けるものの棲家になっていった……」



 ぱきん……。



 足元から聴こえた音にびくりと震えながら視線を落とす。どうやら天井から剥落した破片を踏み砕いたらしい。


 狭い壁に反響して判りづらいが、足音は三つ。

 巽のワークブーツが恐る恐る、だが意外と躊躇いなく進むものと、綾人のスニーカーがビビリ全開でついていくものと、余裕綽綽たる師匠のブーツの踵の音。どれもざりざりと足元の木片やコンクリート片を踏んだり蹴飛ばしたりしている。


「まァ所有者不明とはいっても、誰のものでもない、というわけではない。ゆえにこういう肝試しってたいていは不法侵入、場合によっては器物損壊にもなるから、よい子も悪い子も真似しないでほしいものだねぇ」

「……師匠。誰に向かって言ってんすか」


 思わず振り向いてしまった綾人を、師匠は静かに見つめ返してきた。


「誰って、ここ」


 華奢な首をこてりと傾げた師匠が視線を斜め後ろに流す。


 今日の面子はビビリの弟子二人と人でなしの師匠の総勢三名。

 足音は三つ。

 最後尾の師匠の後ろになど、誰もいない。


 誰もいないはずなのだ。


 暗闇が広がるだけの空間に目をやって、師匠はまた首を傾げた。



「……おや。行っちゃったかな」



 ――息が止まる。


 例えば視える力にレベルをつけて、常識の範囲を0から10とすると、綾人がレベル4で巽が5、そして師匠は10、普通の人間の最強クラスだ。

 綾人には視えないものが巽には視える。巽に視えないものも、師匠には視える。との相性によってはまた変わってくるそうだが、師匠の眼に映らないものが綾人の視界に現れることはまずないと言っていい。



 、視えていた。

 斜め後ろをついてくる、「よい子」だか「悪い子」が。



 ぞわっと鳥肌が全身を駆け抜けた。

 自分には視えないものが視えている人の挙動の気味悪さ。少しは慣れたつもりでいたが、やはりこうして違いを見せつけられると寒気がする。


 そしてそれはそのまま自分にも跳ね返ってくるものだ。「自分には視えないものが視えている」綾人を見ていた、家族や周囲の人びとが抱いた不安や気味悪さを、身を以て思い知る。


 師匠は黙りこくった弟子たちの反応にうっそりと口角を上げた。


「扨てじゃあ――、そこの部屋に入ろうか?」


 非常用出口から廊下に侵入してからこれまで、部屋を三つほど通り過ぎていた。

 鍵がしっかりとかかっていたので巽もスルーしてきたのだが、師匠が指した部屋はドアそのものがないようだ。ライトに照らされて濃い翳が浮かび上がり、誘うようにぽっかりと入口を開けている。


 ここからが本番だ。

 師匠は薄い笑みを浮かべたまま、右手の人差し指と中指を立ててひらひらと振った。


「今日の目的は二つ。一つめは『このホテルに何がいるかを確かめる』、そしてもう一つは『五階の客室にある見事な落書きを生で見る』。さァ確かめていこう」


 師匠の笑みが深くなり、綾人たちはこくりと喉を鳴らす。


「この場所が日本有数の心霊スポットといわれる所以をね」

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