たそがれ重畳奇譚

天乃律

その一、廃ホテルはド定番

a 現実のホラーでの操作性の不自由は死に直結する

『心霊スポット』――



 って、聞いたら何を思い浮かべる?


 使われなくなった病院、古い宿、学校、廃屋、アパート、炭鉱跡、それから夜のトンネル、ダム、橋、電話ボックス、丁字路、公衆トイレ、公園、広く山や海……それから忘れちゃいけない、ド定番に入れるべきはホテルだよな。

 かつては多くの従業員や客で賑わい、朝も昼も夜も常に人の気配があって、誰かにとってのドラマが――良い意味でも、悪い意味でも――秘められていたかもしれない、ホテル。

 そしていまや人々の記憶のなかに取り残されて、楽しかった日々を忘れられない建物だけが今日も宿泊客を待っている、打ち棄てられた、古いホテル。



***



 春から一足飛びに夏へと近づき、徐々に空気が湿っぽさを帯びてきた六月中旬。

 時刻は二十三時四十八分。

 某所、某山中――某廃ホテル前の雑草のなか。

 人工の灯かりの介入を許さない暗闇を味方につけた、得体の知れない威圧感を漂わせる建物を見上げていると、思わず「待って」という声が口から零れた。


「待って師匠」


 まだ何も始まっていないうえ、制止したところで聴いてくれる師匠じゃねぇと内心自棄を起こしつつ、秋津あきつ綾人あやとは三たび口を開く。


「いや、待って。師匠ほんとに行くんですかここ」

「やだなァ秋津クン。一体何のために車で二時間も山越えしてきたと思ってんですか。相変わらず往生際が悪いね」


 右隣に悠然と仁王立ちする師匠は「ハハハ」と空虚な笑い声を上げながら、着物の袂から懐中電灯を取り出した。ハハハじゃねぇよ。


 かち、と小気味いい音とともに、小さなオレンジ色の灯かりが足元を照らす。

 狭い。

 照らされる範囲があまりにも狭い。

 師匠の履いているブーツの爪先しか見えない。

 いつものこととはいえ、こんな小さな灯かりで一体何を照らそうというのか。不満たらたらの綾人の顔に目をやって、師匠はくつり、と喉の奥で笑った。


「操作性の不自由が恐怖を煽るのさ」


 それはホラーゲームにのみ許される理論である。

 現実のホラーでの操作性の不自由は死に直結すると思う。


 綾人の左隣でげんなりしていた兄弟子のたつみ大雅たいがが、師匠の手元の安っぽい懐中電灯を見て盛大に顰め面になった。「師匠、その懐中電灯……」眉間に刻まれたアルプス山脈級の皺が巽の心中を代弁している。


「この間の海辺のゲストハウスでも使いましたよね。ブン投げましたよね俺。あのあと点かなくなったから新しいの買ったと思ってたのに、どっからどう見てもそれ、この間壊したやつですよね」


 曰く、『新しいの買わせるためにわざわざブッ壊したはずなのに、なんで懲りずにそのボロ使ってんだこの鬼畜野郎』――こんなところか。


「アーまあたまにライト切れたりもするかな? 懐中電灯の寿命なんか気にしてちゃ生きていけないよ、巽」

「気にしろよ!!」


 ドスの効いた声でストレートなツッコミを入れる兄弟子の肩をぽんと叩いた。

 この兄弟子、頭皮によろしくなさそうな金髪が眩しい長身美形という見た目である。加えて元スーパーヤンキーという経歴を引っ提げているものだから、怒鳴ればなかなかの迫力があるのだが、生憎そんなものに臆する師匠ではない。「ハハハ」とか胡散臭く笑いながら懐中電灯を振っている。


 いやだから、ハハハじゃなくてさ、師匠……。

 ほろりと架空の涙を拭うふりをした弟子二人に、師匠は「声が高い」と口角を釣り上げた。誰のせいだと思ってんだこのやろう。


「まあ見てみなさいよ、立派な廃ホテルじゃァないか」

「「立派な……?」」


 師に対する不信感や苛立ちや脱力感、それを上回る恐れに、つい遠い目になってしまった弟子たちであった。


 一度巽に壊されて瀕死の懐中電灯が照らすは、日本でも有数の心霊スポットであるという某ホテル。

 かつては男女の逢引きの名所として知る人ぞ知る愛の巣だったそうだが、経営悪化に伴い閉鎖されてはや十数年。壁面には夥しいほどの蔦が這い、窓から伸びる幾筋もの罅割れは涙の痕のように見えなくもない。灯かりに照らされた窓の奥の翳は濃く、いかにも廃墟然とした、この上なく、確かに立派な、紛うことなき、廃ホテルだ。

 男三人、安物の懐中電灯一本。うち師匠はいざというとき逃げ辛そうな着流し姿、もう二人は大学生になっても怖いもんは怖いビビリ。

 いつものこととはいえ紙装備にも程がある。


 この変態――いや変人――いや、風変わりな師に弟子入りしてひと月。

 師事したとはいっても『習うより慣れろ』が教育指針の人なので、教わるよりもギャアギャア騒ぎながら夜中に連れ出されるほうが圧倒的に多い。すでに突撃してきた心霊スポットは相当数だが、せめて懐中電灯くらいは最新のLEDライトにしてほしいと、流れ星を目撃したら即座にそれを願いたいくらい綾人は切実に考えていた。

 今日び霊感はないけどそれっぽく肝試し実況をしているYou Tuberのほうがまだましな装備を整えている。


 そんな胸中を察しようともしない師匠は、にっこり笑った。


「よし行くか。はい巽、前」


 名指しされた巽がそっと天を仰ぐ。

 こういうときの切り込み隊長はたいてい彼が指名されるのであった。今回も無事の帰還を祈るように――観念したともいう――小さく息を吐いて、押しつけられた瀕死の懐中電灯を片手に、腰の高さまで伸びた雑草を掻き分けて歩きだす。

 綾人はその背中を見失わないよう、ぴったりひっついて追いかけた。

 師匠は着物の袖の中に腕を突っ込み、飄々とした笑みを浮かべながら、最後尾をゆっくりとついてくる。


「やっぱり心霊スポットの中でも廃ホテルはド定番だよね。ちなみにこのホテル、男女の変死体が発見されたとか、廃墟になってから住みついたホームレスが惨殺されたとかそういう噂があって、まあ根も葉もないんだけど、それなりに色々起こるって話だから気をつけなさいね。先住の方はいないと思うけど」


 楽しそうだなぁ……。

 弟子二人はビビリなので毎度ひーひー死にそうになっているが、この師匠は何が起きても、何に襲われても、けっして楽しそうな様子を崩さないのだった。綾人たちがビビっているのを見るのが好きなのだろう。やっぱり変態だ。人でなしだー。

 草を掻き分ける弟子二人の背に、ふと師匠のつぶやきが聴こえてくる。


「扨て……今日は何が起きるのかしらね」



 巽が顔半分だけ振り返り、目元を僅かに緩める気配がした。

 問答無用で心霊スポットに突撃するような無茶な教育方針で、弟子が恐怖に絶叫するさまを高笑いしながら眺めている変態でも、こんな風にわくわくした様子で後ろをついてくる師匠のことが、綾人たちはなんだかんだで好きだった。



 こっそりと口元をほころばせて油断した瞬間、頼りないとはいえ一応彼らの行く先を照らす唯一の道標であった懐中電灯の灯かりがふっと消える。



「「ギャアアアア!!」」

「あ、やっぱり切れたか。ハハハ」



 ……なんだかんだで好きだったが、いや、やっぱりちょっとは嫌いだった。

 ハハハじゃねぇよマジで!!

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