#3

 がちゃん、と扉の開く音と、晴奈が控えめに「ただいま〜」と言う声が聞こえてくる。あたしが先に眠っていると思っているんだろう。

 実際、晴奈がシャワーを浴びている間に床で寝落ちたり、ベッドを占領してしまうこともあった。でも今のあたしは、まごうことなき狸寝入りだ。


 レジ袋のがさがさという音と、冷蔵庫の扉を開け閉めする音。あのアイスは買えたんだろうか。もしも「売ってなかった」と言って、別の似たような味のものを手渡されたら、あたしはきっと沈んでしまう。

 けれど、中途半端に満たそうとするくらいなら、何も得られずに飢えているほうがずっといい。そうすれば少なくとも、自分には嘘をつかずに済む。


 晴奈の近づいてくる気配がする。あたしは膝を抱え、腕に顔を埋めて、一定のリズムを意識しながら呼吸する。

 肌の露出したところに柔らかなものが触れて、タオルケットがかけられたのだとわかった。


「こんな窮屈な格好で、よく眠れるなあ」


 つぶやくように言うのが聞こえたあと、晴奈の気配はあたしの前から横へ移り、少しもたれかかるように寄り添った。

 こんなにくっつくのは、一体いつぶりだろう。仲が良いと言っても、私たちは他の女の子たちのようにベタベタするタイプではなかった。

 あたしが覚えている限りでは、高校受験の合格発表の日に一度だけ。先に推薦で入学が決まっていた晴奈と一緒に掲示板を見に行き、あたしの番号を見つけたとき、どちらからともなく抱き合ってはしゃいだ。

 まだ冷たい風の吹く春の始まり、分厚いコートの下から伝わってくる体温が、また同じ場所で過ごせる喜びを物語っているようだった。


 あのまま、幸せなままでいられたらよかったのに。


 どうしようもないことだとわかっていながら、それでもなお何百回、何千回と繰り返す思いに、あたしはまた取り憑かれる。


 恋が、あたしを欲張りにしてしまった。

 もう充分満たされていたはずなのに、いつのまにかそれを物足りないと思うようになってしまった。

 今こうして晴奈が身をゆだねてくれていることだって、単純に喜ぶべきことのはずなのに、あたしはひりひりとした渇きを感じることしかできないのだ。


 しばらく鬱々としたのち、ふと、ずるい考えがよぎる。


 晴奈は今、あたしが眠っていると思い込んでいる。それを利用して、寝言のふりで「好き」と言ってみたらどうだろう。

 そこで反応をみて、もし万が一、億が一、晴奈があたしを恋愛対象として見てくれるかもしれないと思ったら、明日改めて告白する。脈がないと感じたら、そのまま何事もなかったように振る舞えばいい。

 晴奈に気まずい思いをさせる可能性は低いはずだし、あたしが傷つく程度も抑えられる、これ以上ない作戦じゃないか。


 喉の奥でできるだけ眠たそうな声色を用意して、あたしは小さく口を開く。


「はるなぁ」

「んー?」

「すきぃー」

「んー」


 意味の汲み取れない返事。そもそも、返事なのかどうかすらわからない。


 愛してる、とでも言ったほうがいいのだろうかと思ったとき、


「そういえば、寝言に返事するのってよくないんだっけ」


 晴奈がそんなことをつぶやいたので、あたしは黙らざるを得なくなった。

 関係に波風を立てないように気持ちを伝えようだなんて、そんなことは、初めから考えるべきじゃなかったのだ。


「さて、私も寝る支度するかな」


 晴奈が立ち上がるのがわかる。

 ユニットバスの扉が閉まる音がしたあと、小さなリビングには誰の気配もなくなった。




 ゆっくりと目を開け、腕の中に埋めていた顔を上げる。ぼんやりした頭に、水の流れ落ちる音がひびく。

 そっと立ち上がり、キッチンへ入る。

 冷蔵庫の中をのぞきこんだとき、あたしは、心臓をつかまれたように息が苦しくなった。


 あたしは本当に、このままでいいんだろうか。

 たったひとつ、だけど重大な秘密を抱えたまま、「親友」として晴奈のそばにいられるんだろうか。

 それがあたしの、心からの望みだろうか?



 確かにあたしは、欲張りでわがままだ。

 こんなに一緒にいるのに、恋をして、それだけでは済まなくなってしまった。

 けれど、恋をするのが悪だなんて、誰が言っただろう。


 恋はするものじゃなく、落ちるものだなんて言葉があるけれど、あたしは「始まってしまうもの」だと思う。

 気づいた時には走り出していて、今どのあたりにいるのか、いつ終わりが来るのかもわからない。

 そうやって、あたしは始まってしまって、今もずっと走り続けている。

 この気持ちが終わるのか、続いていくのかはわからないけれど、そろそろ一区切りつけてもかまわないんじゃないだろうか?



 ユニットバスの扉を、えいやと開く。

 ビニールのカーテンの向こうに、晴奈の姿がある。


「え、ちょっと、何してんのトーコ」

「あの、あたし、晴奈に大事な話が……」

「わかった、風呂出たら聞くから」


 いつも落ち着いている晴奈の、珍しく慌てた声を聞いて、あたしはようやく自分のしていることに気がついた。


「ご、ごめん!」


 開けたときと同じくらいの勢いで扉を閉める。

 恥ずかしさで逃げ出したくなる気持ちを落ち着かせるため、あたしは狸寝入りをしていた位置に戻り、炭酸のすっかり抜けたビールをぐっと飲み干した。




「で、なに、話って?」


 濡れたままの短い髪にバスタオルをかぶって、晴奈が切り出す。


「風呂場に突撃してくるくらいなんだから、よっぽど大事な話なんだろうね」

「あの、それは本当に……ごめんなさい……」


 床に額がつくかと思うくらい頭を下げると、小さな笑い声が聞こえてきて、少しほっとした。

 怒らせていたらどうしようと、半分くらい本気で心配していたから。


 そしてあたしは、想いのすべてを伝えた。

 端的に言えば、晴奈に恋をしている、ということを。


「うん、私も籐子が好きだよ。で、これからどうする?」

「……えっ」

「なに」

「いやいや、えっ、なんかもうちょっとこう、ないの」

「なにが」

「ずっと友達だったのに〜とか、女同士なのに〜とか、そういうの! ないの?!」

「ないけど」


 マジか。


「えっ、ていうか、あたしのこと好きって言った?」

「言った」

「え、それは、恋愛対象として?」

「うん」

「じゃ、じゃあ、あたしたち、付き合うってこと?」

「籐子がよければ」


 マジか!


「えっそんなの付き合う、絶対付き合うめっちゃ付き合う付き合ってください」

「わかったから落ち着け」


 肩をぽんぽんと叩かれて、超高速で回っていた思考が今度は急ブレーキをかける。

 今なら、耳の穴から煙だって出せそうだ。


 ついさっきまで親友だった子と、たった今恋人になった子と、目が合う。

 こんなこと、何度あったか知れないのに、火花が鳴るかと思うくらい意識してしまう。

 晴奈は、あたしの恋人は、とろけるような微笑みを浮かべた。


「とりあえず、アイスでも食べようか」




 ああ、神様。

 あたしたちの恋は、まだ始まったばかりです。

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Sun & Moth 麻(asa) @o_yuri_san

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