1999年8月7日

 そのテーブルは1年半前と何も変わっていなかった。

 安っぽいチェック柄のテーブルクロスは、南京路のデパートでふたりで選んだものだ。あの春から、まるで秒針すら動いていないかのようだ。その同じテーブルに戻ってきた。


「――まずは座ってください」


 古びた窓枠の遠くには、上海テレビ塔の先端が夏の日差しに揺らめいていた。

 小莉シャオリーが、あんなに会いたかった人が目の前にいる。冷たいジャスミン茶に浮かべた氷が、グラスの中でカランと音を立てた。

 再会を飾る言葉もなくただ手を取り合って黙った。手のぬくもり以上何もいらないが、ようやく重たい口を開いたのは小莉シャオリーだった。


「色々ありがとうございました」


 色々と濁された部分には、どんな想いが含まれるのだろう。

 <会いに来てくれて、ありがとう>か、<二人のために頑張ってくれて、ありがとう>か。いや違う。やはり<今まで、ありがとう>なのだ。

 最後ぐらいキレイにお別れしたいからこその、ありがとう。


 ソファを借りて横になった。

 明かりを消し、見慣れた部屋の天井を見つめる――。



――わたしのアパートに泊まってください。

 香港からの電話に、小莉シャオリーは消えそうな声でそう言った。

 どういうつもりなのか。だが俺が返したのは「大丈夫なのか?」という一言だけだった。


 彼女はもう俺の恋人ではない。

 100キロ程離れた蘇州にその婚約者の男がいる。

 小莉シャオリーは<没問題メイウェンティ>と短く言い切った。


 ややこしいことになる前に、その男も座ったであろうソファを伸ばして横になった。

 つらい数日間になるかもしれない。

 今、彼女との間にあるものは過去だけであり、脈打つ現在ではない。

 再会のぬくもりが過ぎると、次第にぞんざいな気分になってきた。たとえ部屋を分けているとはいえ、仮に男が乗り込んできた場合言い逃れはできない。ともすれば、これは何かの罠か――。

 狭いソファで身をよじり固く目を閉じた。



「何も食べないのか?」


 近所の食堂で鶏粥をかきこみながら、向かいの白いドレスに声をかけた。


「わたしはお茶だけで結構です」


 きれいな日本語が返ってきた。しかしその口元には不安が浮かんでいた。

 一年半前、彼女の隣にいたのは礼儀正しくきちんとした身なりの好青年だった。しかし再び現れたのは、武骨な労働者と変わらない旅人だ。無精ひげやパサパサに乾いた髪などとてもデート向きとはいえない。

 ばかりか、どうしても小莉シャオリーに対しても優しい気持ちが湧いてこない。すまなく思ったが口を動かしながら、昨晩「色々」と濁された部分について再び思ったりした。


「――数日間休暇を取りました。今日はゆっくりお話ししましょう」


 小莉シャオリーは、お茶をテーブルの端によけると無理に微笑んだ。


 恋人と呼んでいいのならそう呼びたいが、今の彼女には婚約者がいる。

 にもかかわらずパリや香港からの電話に、彼女ははっきりとこう言った。

 <ずっと、あなたを待っています>と――。

 その矛盾の整頓を、俺に押し付けるつもりか。



 外灘ワイタン(上海バンド)は、ふたりで住んでいた当時よく歩いた場所だ。

 黄浦江には渡し船や貨物船がゆったりと流れ、対岸の浦東新区には上海経済の象徴である高層ビルが立ち並び、黄土色の川面を見下ろしていた。


 みやげ物や食べ物をぶら下げた物売りたちに何度も足を止められた。

 小莉シャオリーはいちいち上海語で断っていたが、ついにそのうちの一人が彼女の白いドレスを汚した。

 アイスキャンディー売りの青年で、断っているにもかかわらず我々に強引に押し付けてきた結果、俺が振り払った手がぶつかり、彼女が「あっ」と小さく声を上げた時には、スカートの裾に紫色のシミを作ってしまった。


「どこに目をつけてんだ、この野郎!」


 俺は烈火のごとく怒り、アイスキャンディー売りの胸ぐらをつかんだ。青年も負けじと声を張り「アンタが叩き落したんだから弁償しろ!」と応戦してきた。


「ケンカはやめて!」


 小莉シャオリーは俺にしがみついた。

 取るに足らないことだったが、この日の俺はささくれ立っていた。

 予想以上にケンカが大きくなってしまいあっという間に遠巻きの輪を作ってしまった。次第に面倒くさくなり、ポケットから10元札を叩きつけた瞬間だった。別の少年が小莉シャオリーの肩掛けカバンに手を伸ばしているのが目に入った。


小莉シャオリー、カバン!」


 気付くのが早かったため何事にも至らず、彼らはあっという間に四散していった。


「…すごく怖かった」

「もう大丈夫だ。あのアイスキャンディー売りも含めてグルだったんだろう」


 ところが、小莉シャオリーから意外な言葉が返ってきた。


「あなたが一番怖かったです!わたしの知っているあなたはとても優しい人!ケンカなんてしない人でした!」


 そして小莉シャオリーは静かに俺を睨みつけると続けた。


「あなたは変わってしまった。今のあなたは私の知っているあなたではありません!」


 俺が変わってしまっただと?

 じゃあその原因を作ったのは一体どこの誰だ!


 溜め込んでいた感情が一気に火を噴き、あと一歩でアイスキャンディー売りの青年にしたように理性を失うところだった。この小さな事件をきっかけに空気は悪くなり、その後ほとんど会話もなく夜を迎えようとしている。霞んだ月が窓の外に浮かんでいた。

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