1999年8月8日

 洗面台で歯を磨いていたところに軍服姿のリーウェンがぬっと現れた。その仏頂面に思わず悲鳴をあげた。


 小莉シャオリーの妹・莉文リーウェンは中国人民解放軍に所属しており、今は茶器で有名な江蘇省・宜興イーシンという街に赴任している。いかにも頑丈そうな面構えで、昔から滅多に笑顔を見せない。

 そのリーウェンが車をブッ飛ばして上海の姉のところに来たのは、どうやら俺だけが理由ではないらしい。


「――父さんのところに寄ってきたわ」


 リーウェンはぶっきら棒に言うと、テーブルに盛ってあった黄桃を皮付きのままかじり始めた。顔に埋まった小さな目をギュッと絞り、扉の陰に隠れた俺を睨みつけた。横を向いて種を吹き出すと、リーウェンは分厚い掌をテーブルに叩きつけた。


「姉さんもお見舞いに行ってよ!宜興イーシンから上海まで3時間はかかるんだから!」


 この女軍人は、素行不良の俺から姉を守るために来たわけではなく、姉に苦情を言いに来たのだった。

 その後二人は激しく上海語をぶつけ合っていたが、やがてリーウェンは窓ガラスが割れるほどの勢いでドアを閉めて出て行った。


 妹が叩きつけていったドアを小莉シャオリーは睨んでいた。


「大丈夫か?」


 小莉シャオリーは返事をする代わりに、目を閉じて頷いた。


「聞こえましたか?」


 姉妹ケンカのことではなく、父親が入院していることについてだ。


「ああ、何となく理解できた」


 聞けば、小莉シャオリーの父親が心臓発作で倒れたのは二か月前のことだった。残念ながら、すでにバイパス手術でどうにかなるレベルではないらしい。


「なぜお見舞いに行かない?」


 ところが彼女は目を閉じたまま首を横に振り、「大丈夫ですから」と繰り返した。



 再び現れた中国人民解放軍は援軍を連れてきた。母親のウェンインである。

 すでにリーウェンから事情を聞いていたのか、俺を見つけるなり「今すぐ荷物をまとめて出て行け!」と凄まじい剣幕で怒鳴り散らした。そして俺の腕をつかむと強引に玄関の外へと引きずり出した。


「今すぐ出てってやるからカバンと靴を取らせろや!」


 中国語で喚きながらドアに蹴りを入れた。

 部屋の中から怒号と叫び声が続いていた。しばらくして泣きはらした小莉シャオリーが俺のカバンを持って現れた。


「…ごめんなさい。夕方までどこかで待っていてください。必ず迎えに行きます」


 下を向いたままつぶやくと、小莉シャオリーは静かに後ろ手でドアを閉めた。



 それにしても母親ウェンインの変わりようには驚いた。

 小莉シャオリーの実家は、上海郊外の静かな農村地帯にある。小莉シャオリーとリーウェンは子供の頃から実家を離れ、上海市内の親戚の家で育った。

 その両親に初めてあいさつに伺った時の印象は、いかにも田舎の農夫そのものだった。着古した赤いセーターに前掛けを締め、霜焼けで赤くなった頬で迎えてくれた。父親も娘が連れてきた恋人に泥のついたズボンのまま現れた。


 小莉シャオリーの両親は、最初からふたりの交際について否定的だった。しかしそれは「果たして娘は海外でもちゃんやっていけるかしら」という心配からであってそれ以外の何物でもない。

 まだ高校を卒業したばかりの俺は「必ず幸せにします!」とどこかで聞いたセリフを繰り返すばかりで、少しも彼ら両親を安心させるものではなかった。しかしそれでも別れ際には「大学での勉強がんばるんだよ」と励ましてくれた。


 それが今朝は、頬の霜焼けは厚塗りしたファンデーションに隠され、挨拶も叶わぬまま害虫のごとく追い出された。小莉シャオリーの母親を変えてしまったのは、新たに婚約者として内定した「蘇州の金持ち次男坊」だ。

 我々ふたりの将来を危ぶんだ両親はカネを撒いて、この金持ち一族との縁談を引っ張ってきた話はすでに触れた。

 小莉シャオリーにほれ込んだ金持ち次男坊は、楊家を家ごと買い占める勢いで一家の機嫌を取り始めた。次々と包装紙に包まれた贈り物が届けられ、挙句の果てには新築マンションのカギまで送られてきた。それら豪華な贈り物の数々に俺がお母さんのために送ったカシミヤのセーターなど埋もれてしまったのだろう。



<…もう大丈夫です。彼らはもう来ないので戻ってきてもらえますか?>


 夕方携帯電話に出た小莉シャオリーは消え入りそうな声で言った。

 屋台で二人分のビーフン炒めと黄桃を買うと、彼女のアパートに戻った。小莉シャオリーは玄関の床にしゃがんで倒れた花瓶の水を拭いていた。


「――もういい。俺がやるから少し休んでいて」


 彼女から雑巾を取り上げた。

 小莉シャオリーは下を向いていたが、やがてワァっと声を上げて泣き出した。


「…両親は変わってしまいました。勝手にわたしとあなたを引き裂き、お金に目がくらんだ下品な人間になってしまった。父が倒れた時天罰が下ったのだと思いました。あの人たちはもう関係ない人です!勝手に死んだらいいんです!」


 小莉シャオリーは叩きつけるようにいうと、肩を震わせて泣き叫んだ。


「…だが俺はもうあなたに会うべき人間じゃない。落ち着いて話をする機会を作ってくれて嬉しかったが、もう出ていくよ」


 カバンを肩にかけて玄関に向かう俺の背中に、小莉シャオリーはしがみついてきた。


「どうして!あなたはわたしを連れだすためにここに来たんじゃないんですか?わたしはあなたがここから救い出してくれるのをずっと待っていたんです」


 そして、彼女はもう一度叫んだ。


「みんな変わってしまった!両親も!妹も、そしてあなたも!みんなわたしを置いて変わってしまった!」


 俺は向きなおると小莉シャオリーを抱きしめた。

 一年半ぶりに抱きしめたその背中はとても小さかった。

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