1999年8月8日
洗面台で歯を磨いていたところに軍服姿のリーウェンがぬっと現れた。その仏頂面に思わず悲鳴をあげた。
そのリーウェンが車をブッ飛ばして上海の姉のところに来たのは、どうやら俺だけが理由ではないらしい。
「――父さんのところに寄ってきたわ」
リーウェンはぶっきら棒に言うと、テーブルに盛ってあった黄桃を皮付きのままかじり始めた。顔に埋まった小さな目をギュッと絞り、扉の陰に隠れた俺を睨みつけた。横を向いて種を吹き出すと、リーウェンは分厚い掌をテーブルに叩きつけた。
「姉さんもお見舞いに行ってよ!
この女軍人は、素行不良の俺から姉を守るために来たわけではなく、姉に苦情を言いに来たのだった。
その後二人は激しく上海語をぶつけ合っていたが、やがてリーウェンは窓ガラスが割れるほどの勢いでドアを閉めて出て行った。
妹が叩きつけていったドアを
「大丈夫か?」
「聞こえましたか?」
姉妹ケンカのことではなく、父親が入院していることについてだ。
「ああ、何となく理解できた」
聞けば、
「なぜお見舞いに行かない?」
ところが彼女は目を閉じたまま首を横に振り、「大丈夫ですから」と繰り返した。
再び現れた中国人民解放軍は援軍を連れてきた。母親のウェンインである。
すでにリーウェンから事情を聞いていたのか、俺を見つけるなり「今すぐ荷物をまとめて出て行け!」と凄まじい剣幕で怒鳴り散らした。そして俺の腕をつかむと強引に玄関の外へと引きずり出した。
「今すぐ出てってやるからカバンと靴を取らせろや!」
中国語で喚きながらドアに蹴りを入れた。
部屋の中から怒号と叫び声が続いていた。しばらくして泣きはらした
「…ごめんなさい。夕方までどこかで待っていてください。必ず迎えに行きます」
下を向いたままつぶやくと、
それにしても母親ウェンインの変わりようには驚いた。
その両親に初めてあいさつに伺った時の印象は、いかにも田舎の農夫そのものだった。着古した赤いセーターに前掛けを締め、霜焼けで赤くなった頬で迎えてくれた。父親も娘が連れてきた恋人に泥のついたズボンのまま現れた。
まだ高校を卒業したばかりの俺は「必ず幸せにします!」とどこかで聞いたセリフを繰り返すばかりで、少しも彼ら両親を安心させるものではなかった。しかしそれでも別れ際には「大学での勉強がんばるんだよ」と励ましてくれた。
それが今朝は、頬の霜焼けは厚塗りしたファンデーションに隠され、挨拶も叶わぬまま害虫のごとく追い出された。
我々ふたりの将来を危ぶんだ両親はカネを撒いて、この金持ち一族との縁談を引っ張ってきた話はすでに触れた。
<…もう大丈夫です。彼らはもう来ないので戻ってきてもらえますか?>
夕方携帯電話に出た
屋台で二人分のビーフン炒めと黄桃を買うと、彼女のアパートに戻った。
「――もういい。俺がやるから少し休んでいて」
彼女から雑巾を取り上げた。
「…両親は変わってしまいました。勝手にわたしとあなたを引き裂き、お金に目がくらんだ下品な人間になってしまった。父が倒れた時天罰が下ったのだと思いました。あの人たちはもう関係ない人です!勝手に死んだらいいんです!」
「…だが俺はもうあなたに会うべき人間じゃない。落ち着いて話をする機会を作ってくれて嬉しかったが、もう出ていくよ」
カバンを肩にかけて玄関に向かう俺の背中に、
「どうして!あなたはわたしを連れだすためにここに来たんじゃないんですか?わたしはあなたがここから救い出してくれるのをずっと待っていたんです」
そして、彼女はもう一度叫んだ。
「みんな変わってしまった!両親も!妹も、そしてあなたも!みんなわたしを置いて変わってしまった!」
俺は向きなおると
一年半ぶりに抱きしめたその背中はとても小さかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます