1999年8月6日

 フィギュアスケート選手の娘たちはその脚線美を見せつけ、一つ前の駅で降りていった。98年の長野冬季オリンピックには間に合わなかったが、「次のソルトレイクに向けて頑張ってるの」と胸を張る。

 広州での強化合宿を終え、浙江省金華からそれぞれの村へと帰る途中らしい。金華といえば、かの諸葛孔明の子孫が暮らす諸葛村がある。


「あたしは諸葛村の出身じゃないけれど、浙江人はよく”頭が良くて戦略家”って言われるよ」


 強化合宿では、難易度は低いが得点の高い技に絞って練習してきたらしい。

 足の長い16歳の娘によれば、浙江省は長江沿いの貿易で発展した土地であるため、知恵を活かした柔軟さを授かったという。


「それから江南美人って言葉も聞いたことあるでしょ?」


 長いポニーテールを揺らしながら彼女は軽やかにステップを踏んだ。

 うん、君は本当に美人だね。


「なるほど、地域によって性格も色々なんだね。じゃあケンカっ早い地域とかもあるの?」


 すると「辣妹子ラーメイズ!」という声があちこちから上がり、彼女たちはどっと笑った。


「四川、安徽に湖南。それから東北の全部!辛い物ばかり食べているからいつも唐辛子みたいにカッカして、ぜんぜん話しが通じない!」


 そこの唐辛子文化と人々の沸点の低さを絡め、中国では辣妹子ラーメイズ(ピリ辛娘)と揶揄する。今回の合宿でも湖南省の強化選手たちとひと悶着あったという。


「――じゃあ上海は?」

「上海?上海ですって!?」


 その名を聞いただけで、氷上の妖精たちから一斉にブーイングがあがった。


「上海人は人を騙す。上海以外は全部田舎だとバカにする。特にひどいのは上海の女。とにかくお金が大好き。上海人に声をかけられても気を付けてね!」


 上海人の悪評は、東京で暮らす中国人からもよく聞かされる。北京の友人たちなど「アイツらは友情もカネ次第」と遠慮がない。香港を発つ前も、陳さんのお母さんから「上海は中国で一番治安の悪い場所だから、むやみに人について行っちゃダメ!」と噛んでふくめるように忠告された。


 だが俺を夢中にさせたのは、そんな上海の女だ。

 彼らからすれば、それは「悪魔に魂を売った愚行」に他ならない。


 しかしそこまで中国全土を感情的にさせる上海だが、そもそも都会というものはサンドバッグになりやすいものだ。大学でも地方組から「東京の人は冷たい」、「水が臭くて飲めない」とさんざん聞かされている。

 黙って聞いてりゃいい気になりやがって――。

 テメエっちにそこまで言われて「さぃでございますか」って引っ込んでなきゃなんねぇ弱ぇ尻はこっちにはねぇってんだい!



「――ねぇねぇ。さっきのお姉ちゃんすごくセクシーだったね」


 この瓶底メガネの少年の名は華宝ワーポウ

 上海に住むおばあちゃんを訪ねる途中だという。


「特にあの背の高いお姉ちゃんは兄ちゃんのことすごく気になっていたみたい。ちゃんと連絡先聞いた?」


 俺がフィギュア選手の女の子たちに囲まれていた時も、「はいはい質問は一人ずつお願いしますよ!」と勝手に秘書役を買い、「子豚は黙っていなさい!」と彼女らから大喝を喰らっていた。

 本を開いたまま眠ってしまった母親に内緒で、社内食堂のチマキを食べにいった。


「なあワーポウ。将来なりたいものはあるか?」


 するとこの少年は、俺の手帳に自信たっぷりに<做個開心人>(”幸せな人になる”の意)と書いた。


「なんだこれは?そういうのが流行っているのか?」


 ワーポウは首を振った。


「ボクのお父さんはとにかく忙しくて毎日疲れた顔をしている。お金があってもああいう人にはなりたくないね」


 父親は証券マンだという。朝から晩まで鳴りやまない携帯電話を肩に挟み、つかの間の休日もパソコンのモニターに張り付く人生を果たして幸せといえるのか。

 これが香港の小学生なりに見た大人の景色らしい。


「あとはさっきのお姉ちゃんみたいな美人と結婚出来たらもう何もいうことはないね」


 涼しい顔してぬかしやがる。

 こっちは中国全土から悪霊のように忌み嫌われた「上海の女」を幸せにするためにどれだけ遠回りをしてきたことか。


「あのなぁ。時には騙されたと分かっていても気付かないフリをすることも必要なんだぞ。周りから可愛がられる人間になれ」


 深刻な顔で忠告したが、ワーポウは横を向くと「そんな上海人みたいなことはしたくないね」とゲラゲラ笑った。まったく引っ叩いてやりたい小僧である。



 夕暮れの上海駅は藍色に沈んでいた。

 駅舎の外には無数のネオンがどぎつい色を放ち、その電飾に照らされたカラフルな人々が渦を巻いていた。<魔都>と呼ばれる上海を表わしているようであり、あるいは光溢れる未来を映しているかのようでもあった。

 列車から欲望の街へと吸い込まれていく人の波にもまれ、青龍刀を担いで出口に向かう。意外にもこの凶器については何のお咎めもなかった。


「ハーイ!」


 白いドレスがいきなり俺の腕を取った。


 目が合った。

 このぬくもりを取り返すためにどれほど涙を流してきたことか。

 その声を聞くためにどれほど耐えてきたことか…。


 小莉シャオリー

 一年半ぶりの再会は、混みあった上海駅だった。


「我回来了(ただいま)…」

「…待っていた。ずっとこの日を待っていました」


 小莉シャオリーは俺の胸の中で声を絞った。

 どうしてこんなことになってしまったのか。

 上海の夜は、長い。

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