1999年8月4日
「――それは本日の教材である。今日の修行が終わったらそれぞれ1本ずつ持ち帰りなさい」
朝7時、ふたたび公園に集まった3匹は、朝からあごが抜けるほど驚かされた。
ロー師匠の厳格なアシスタントと化したお母さんが抱えてきたのは3本の青龍刀だった。
香港には凶器準備集合罪というものがないのか。東京で朝から抜き身の青龍刀をキラキラさせて集まっていたらあっという間に通報されるだろう。
「さて少年たちよ。青龍刀の使い方は知っておるか?」
いうなり「ウドの大木、構えてみよ!」と厳しい声が飛ぶ。口を開けたまま固まっていたディランはハッとして我に返った。なぜ毎回カンフー経験の一番浅いディランが指名されるのか。アランは「Go ahead(やってみな)」と肩をすくめた。
ディランは鼻息荒く青龍刀を抜くと、まるで子供が蝶々を追いかけるかのように青龍刀を振り回しながら走り出した。途中で杖がしなると、ヤツは地面に叩きのめされた。
「アイヤー、awful!(これはヒドい!)」
ロー師匠は、ここに神はおらんのかとばかりに天を仰いだ。
「仕方ないのぉ。手本を見せよう」
地面に突っ伏したディランが握りしめていたものを指から引き剥がすと、ロー師匠はひらりと青龍刀を構えた。
「アイッ!」
裂くような叫び声と共に、青龍刀は銀色の風となり、宙を舞い、そして空を切り裂いた。
この日の修行は昨日に増して厳しいものとなった。
原因の9割はディランのクソ刀術のせいである。俺とアランから睨まれたディランは、汗とも涙ともつかないものを午前中いっぱい流し続けることとなった。
昼休憩に公園の近くで買ってきたチャーシューまんを頬張る。濃い目のウーロン茶でそれを流し込む。
「――ところで、師匠はどういうきっかけで
ロー師匠は干からびているのか、ほとんど汗をかかない。
「ワシは子供の頃から体が弱くてな。心配した両親が太極拳を習わせたのがはじまりじゃった。その後形意拳や洪家拳、それからブルース・リーの師匠としても知られる
いた。ここにもカンフーバカが。
カンフーと共に歩んできた68年である。師匠は立ち上がると、3匹の前で腕を組んだ。
「よいか弟子どもよ!短い修行であり、まだ何も教えてないといっても過言ではない。ワシのように遠回りしてもよい。ただ信念をもって遠回りせよ!」
古いカンフー映画なら、この後父の敵討ちシーンが始まるはずだ。
「ゆけ!」
師匠は背を向けると立ち去ろうとした。
ところがディランは「ですがやっぱりこの刀は持ち帰れません」と感動的なシーンに水を差し、最後の最後まで杖で殴られていた。
昨日のアイスクリーム屋に集まった3匹は深いため息をついた。
「――さすがにマズイだろ?チャイニーズマフィアの襲撃じゃあるまいし」
確かに空港の手荷物検査で、「お土産です」といって誤魔化せるレベルではない。
アイスクリーム屋の店長は、<昨日の3人が今日は青龍刀を提げてやってきました>と通報しようか迷っている。
お母さんを通じて返すという案も出たが、結局3人とも面倒くさくなりダメ元で持ち帰ることにした。
「ところで僕とアランはホテルを変えようと思っているんだが、よかったら君も来ないか?」
ディランは話題を変えた。何かあったのかと聞くと、アランは紺のカンフー服の袖をまくった。肘の下にダニにやられた赤い跡が残っている。
「近くの屋台で知り合ったオーストラリア人カップルから、南Y《ラマ》島にあるゲストハウスの名刺をもらった。香港島からフェリーで30分かかるけど、そこには安くて清潔な部屋があるらしい。君も一緒にどうだい?」
コーズウェイベイのSOGOで資生堂の保湿クリームなどをプレゼント用に包んでもらうと陳さん宅に戻った。もともと明日には香港を発つ予定だったが「予定が早まった」とウソをつくのは気が引けた。
「仕方ないわね。いいこと、日本に帰ってもちゃんと師匠に習ったことを復習することよ」
お母さんや師匠との出会いがなければ、香港滞在はもっと渇いたものになっていた。
お世話になりました。「龍宗関刀」と刻まれたこの青龍刀は、その辺のゴミ箱に捨てたりはいたしません――。
セントラルからフェリーで30分。
南Y《ラマ》島の海鮮レストランは静かににぎわっていた。
ディランたちの説明通り、そこには広くて清潔なベッドが用意されていた。
荷物をおろし備え付けのテレビをつけると、ちょっとした感動があった。
そのCMは、中国本土から香港に遊びに来た旅行者が、海鮮市場で品定めをしながら歩いているところから始まる。
すると段積みになった水槽の上を白い影がすばやく駆け上がった。
<こっちの伊勢海老のほうが活きがいいよ!>
大きな伊勢海老をつかんで微笑んでいたのはジャッキー・チェンその人だった。
ミスター・ホンコンの登場はたった15秒に過ぎなかったが、3匹のカンフーバカは大いにはしゃいだ。
「ファッキン・カンフー!!」
我々は定番になった掛け声を叫んだ。
香港の夜はいつでもそんな小さな感動できらめいている。
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