1999年8月3日

 ディランもアランも一応集合時間に現れたが、二人ともあくびをかみ殺している。昨晩の九龍サイドでの深酒が今頃になって寄りかかってきた。俺もお母さんに叩き起こされなければ、今もよだれを垂らしてお寝んねしていただろう。

 アランはヨレヨレのカンフー服をまとい、しきりにはねた横髪を気にしている。その左手には、北京から担いできたという”こん”と呼ばれる長い棒が握られている。

 香港島セントラル駅周辺といえば、香港上海銀行本店や香港証券取引所に通う身なりのいい金融マンたちが忙しく歩き回るエリアである。アランはその場違いな服装について特に思うことはないようだが、オフィスに向かうビジネスマンたちが携帯電話で彼を隠し撮りしていった。



「――こちらが八卦掌はっけしょうイン派盧ロー師匠です」


 紹介されたのは、痩せて骨ばった老人だった。

 杖をつき、伸びきったインナーシャツを着て静かにたたずんでいる。


「ローです。よろしく」


 見事なクイーンズ・イングリッシュに驚かされた。海運会社の支社長としてロンドンに5年、リバプールに8年駐在していたという。


「ドーツェー、ローシーフー!(「ありがとう、ロー師匠!」の意)」


 完全にフライングしたのはアランだった。ご老体はそのカンフー服をギロリと睨むと、静かな声で質問をした。


「キミはまじめに学ぶ気はあるのかね?そんな棒はそこに捨てておけ!」


 まだあいさつの段階で頭の悪さを一喝され、アランはすでに泣きそうな顔になっている。もちろんディランも無事では済まなかった。


「それからそこのウドの大木!Tシャツが派手すぎる!」


 彼の着てきたTシャツには、人をブン殴って余韻に浸るブルース・リーの変な顔がプリントされている。まさかのファッションチェックで一発お見舞いされ、こちらはママを探して天を仰いだ。アジア最強伝説第3弾「八卦掌はっけしょう編」の始まりである。



 ロー師匠は杖で地面に大きな円を描いた。


「この1周を均等な8歩で歩きなさい」


 明らかに説明が足りない。指名されたディランは何も考えず円の上を歩きはじめ、いきなり杖で殴られた。


「バカもん!普通に歩いてどうする!前足に重心を移し、踵を上げずに次の足を運ぶ。前足は北東、南東、南西、北西に出し、添え足は東西南北に置く!」


 ロー師匠は地を這うような滑らかさで足を運んだ。重心が安定しており、肩の上下はほとんどない。


「やってみろ!」


 声にせかされ、3人は見様見真似でそれを模倣し、そしてそれぞれ杖で殴られた。


八卦掌はっけしょうは歩法が基本!ウドの大木、おまえはマイケル・ジャクソンのつもりか!それから小さい奴!おまえは格好だけか?そして日本人!おまえは歩幅が大きすぎる!」


 この暇な老人は、午前中いっぱい我々を痛めつけた。


「歩法は八卦掌はっけしょうの基礎である。貴様らは今日その歩き方のまま帰れ!」


 バカ真面目なアランは師匠の教えを守り、忙しく働くビジネスマンたちの間で渋滞を引き起こした。


「どけ!ボケナス!」


 その日、アランは世間の冷たさを知った。


「――次は手を教える!イン派では牛舌掌といって、牛の舌のように指先をまっすぐ伸ばして構える。相手の攻撃を素早く捉え、急所を突くために指先は常に伸ばしておく。では歩法に合わせていくつかの掌を教えていく。まずは定勢八掌から!」


 午前中の修行だけで、アランは4回、俺は5回、そしてディランは12回も杖で殴られた。



「本日の修行は以上。明日は刀術を教えてやるから、それぞれ追加で30ドルずつ持ってきなさい!」


 やっと解放されたのは15時半。3匹はセントラル駅近くにあったキティランドのアイスクリーム屋でぐったりした。


「ああいう乱暴なジジイ、初期のジャッキー・チェン映画にいたよな?」

「いたいた!ユエン・シャオティエン(※袁小田。香港映画の武術指導者兼俳優)でしょ?」


 我々は気に入らない人間を、すぐに香港映画に出てくる悪役に例えたがる。アランはナッツ入りのチョコアイスをつつきながら愚痴をこぼした。


「まったく酷いジジイだぜ!アレはきっと家族にも見放されて暇で仕方がないんだ。明日杖で殴ってきたら北京から持ってきたこんで戦ってやる!」


 そんなことより日焼け止めを塗ってくるべきだったと、俺は女子のような感想を述べた。肩口が日に焼け、服がこすれるたびにヒリヒリ痛む。

 3匹はキティーちゃんが描かれた店の壁にもたれ、ウーウー情けないうめき声を上げた。もはや誰一人「ファッキン・カンフー!」などとバカみたいな声を張り上げる気力は残っていない。


「…だけどさ、俺が読んだ八卦掌はっけしょうの本には、五指はブルース・リーみたいにしっかり開くと書いてあったよ」とディラン。


「それはディン派の構えだ。あちらは龍爪掌といって五指を開いた状態で構える」と俺が補足。


「開祖の董海川トン・ハイチュワンは、もともと紫禁城で護衛兵をしていた人なんだよね。その後各地に散らばった弟子たちによって色々な流派ができたらしいよ。ジジイのイン派やディン派だけでなく、考え方も色々だろうね」とアランも加わる。


「――で、今日のおさらいなんだけれど、足の運び方だが、」


 アイスクリームが溶け出すのも構わず、アランは狭い店内で例の歩法の復習を始めた。


「違うよアラン!前足はもう少し手前だ!」


 ディランもその盆踊りに加わる。

 こうして疲れ果てていたはずの3匹は息を吹き返し、「いいかげん出て行ってくれ!」とアイスクリーム屋の店長に追い出されるまで尽きせぬファッキン・カンフーについて熱く語り合った。

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