1999年8月5日

 南Y《ラマ》島の朝は、静かな夏の太陽と海から始まる。

 ここには九龍サイドの喧噪もなければ、香港島のスーツ姿もない。あるのはどこまでも青い空とキラキラと反射する海、そしてゆったりとした時間の流れだ。

 洗濯をし、屋上で自分自身も乾かす。白いシャツを抜ける日差しがまぶしい。

 よく冷やした白ワインを開けて太陽に乾杯する。両手から零れ落ちるゆとりを味わいながら、空に向かって思いっきり背伸びをした。



 ファッキンカンフーの3匹は、ホテルの屋上で青龍刀を振り回したり、定勢八掌の復習をし始めた。

 しかし間違えると杖で殴りかかってくる老人はここにはいない。1時間もしないうちに俺とアランはベンチで足を組み、チーズをかじりながら白ワインをやりはじめた。よせばいいのに参戦してきたディランだったが、案の定グラスに半分も飲まないうちに茹タコになった。こんな体たらくを見つかったら「間違いなく青龍刀で切り刻まれて魚の餌として海に撒かれるだろうね」とアランが笑う。


「――ところで、北京留学を終えたらどうする?」


 アランとは中国語で話したのほうが早い。相方のディランはまだ朝9時だというのに、屋上に捨ててあった折りたたみ式のサマーベッドにもたれ、よだれを垂らして死んでしまった。

 アランはグラスの中の白ワインを眺めたまま唸った。


「実はディランにもまだ言ってないんだけど、北京で恋人ができた。彼女は長拳の達人であり僕の師匠でもある」


 カンフーバカもここに至ると、もはやつける薬がない。


「彼女は幼い頃から武術学校に預けられて育った。貧しい家の出身なのさ。だが身内が良くない。外国人と結婚させて、みんなでぶら下がろうとしている」


 よくある話しだ。

 小莉シャオリーの叔父という人物から、<知り合いが膵臓ガンになった>という手紙をもらったことがある。ようするにまとまった治療費を援助してもらえないかという相談だった。

 人情としては何とか力になりたいと思うが、頼られてもこちらは一介の大学生である。そもそも“恋人の叔父の知人”など他人もいいところだ。よほどその手紙を小莉シャオリーに送りつけてやろうかと思ったが、無駄に彼女を傷つけるだけなので、黙ってゴミ箱に捨てた。


 彼らは身内が海外に嫁ぐことについて、いざという時の保険ができたと臆面もなく考える。そしてこういう手合いに限って、脈絡もなく歴史問題を提起しはじめる。<悲しい歴史があったけど自分は気にしてないから>と下心みえみえの国際平和で締めくくろうとする。肩に乗せたその薄汚い手をどけてほしい。

 3か月前、アランは恋人の両親に挨拶すべく、山東省・済南ジーナンを訪れた。


「――それなりに歓待されたよ。だけどその席で彼女の”育ての親”を自称する叔母から買い物リストを渡されたんだ」


 ところが、どうやら彼女の両親も同類だったらしい。

 お土産に持っていったカナダで最高級のメープルシロップについて、「なんだこれだけか」と台所で笑われているのを聞いてしまったという。


「ところで、その彼女と結婚したらどう生活する?」


 すると、アランは声を小さくして告白した。


「…実はカナダで彼女とカンフーの道場をやろうと思っている」


 別にそこの泥酔者に気を遣って声を落とすことはないだろう。

 大笑いしながら肩をたたいた俺の口をアランは慌ててふさいだ。


 案ずるな、友よ――。

 たしかに俺もディランもバカには違いないが、アンタは間違いなく振り切れちまったカンフーバカだ。



「――さてと。洗濯物も乾いたようだし、俺はそろそろ出発するよ」


 残りの白ワインを一気にあおると俺は立ち上がった。

 チェックアウトをし、玄関から屋上を振り返ると、ふたたび頭上からうるさい声が降ってきた。


「ファッキン・カンフー!!!」


 カナダのバカ二人が抜き身の青龍刀をキラキラさせながら叫んでいた。

 俺も肩に背負った青龍刀を抜き、真夏の太陽に突き立てた。



<…マレーシアからのポストカードありがとうございました。そろそろ連絡が来る頃かと思っていました>


 受話器の向こうから明るい声が聞こえた。

 上海行きの列車は、ここ香港九龍駅を30分後に発車する。


<明日の昼過ぎに上海に到着する予定だったけど、もう少し遅くなりそうだったので連絡しました>


 小莉シャオリーはこちらをさえぎると、<約束の時間を過ぎても夜まで待つつもりでした>と言い切った。


 喜びのすべてであり、絶望の理由。

 忘れてしまおう――。

 何度そう心に誓ったことか。


 やはりきちんと会って話しをするしかない。

 大好きだった彼女の残像を焼き付けて、今度こそ区切りをつけるのだ…。


 それなのに、だ。


<わたし、上海駅であなたが来るのをずっと待っていますから>


 なぜ今さら惑わすのか。一体ふたりの間にどんな将来が残されているというのか。

 あなたにはもう婚約者がいる。その事実を受け入れるためだけに今上海行きに乗り込もうとしているのだ。

 

<とにかく明日会えることを楽しみにしています…>


 ようやくそう告げると受話器を置いたが、果たしてこれは正しい選択だったのか。

 俺は足元を見つめたまま、しばらくその場にたたずんだ。

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