1999年8月2日

 ユナイテッド航空2便はカンボジアやベトナムの田園を超え、サウスチャイナシーを掠めながら香港を目指している。

 隣に座った香港人の老夫婦は、孫のガーロイを連れたバンコク旅行からの帰りだ。高校生ガーロイは、離れた席でイヤホンを耳に突っ込んだまま雑誌を読んでいたが、こちらが日本人だと知るとわざわざ席を移動して話しかけてきた。


「日本の歌も知ってるよ」


 頼みもしないのにCDを入れ替えると、彼は椎名林檎の新曲を口ずさみ始めた。

 「♪今すぐに此処でキスしてぇ~」というだらしない声に、他の乗客が首をひねってこちらを向いている。さりげなく一時停止を押すと「すまないが寝不足だから」と背中を向けた。ところが「香港の歌手は好きですか?」と尚も騒がしい。


「7月初めの張學友ジャッキー・チュンの来日コンサートに行ってきた」


 香港四天王である張學友ジャッキー・チュンのコンサートには、ちん兄さんと出かけた。ちん兄さんとは高校のバイト先だった飲茶専門店以来の仲である。「遊びに行く」といえば、彼と買い物に行くか、飲みに行くことを指すほど親しくさせていただいている。


「――そっかぁ張學友ジャッキー・チュンは今持っていないんだけど、フェイ・ウォンならあるよ」


 北京出身の女性トップ歌手の名前が出てきた。面倒くさかったが差し出されたイヤホンを耳に押し込む。

 映画『恋する惑星』の挿入曲「夢中人」。

 クランベリーズの「Dreams」という曲のカバーで、フェイ・ウォンが広東語で歌っている。


<♪夢の中、1分間抱き合って10分間キスをした。

 まだわたしのことなんて何も知らないはずなのに、どうやってわたしの心の中に入ってきたの?どうやってわたしをこんなに夢中にさせたの?

 どうやらわたしは恋に落ちてしまったようだけど、わたしもまだあなたのことをよく知らない。それなのにあんな夢を見るなんてどうかしてるわ…>


 あなたとの間に生まれた気持ちは、愛と呼ぶより「未解決な問題」といったほうが近い。でも10分間キスをしたのは夢の中ではないよ。世の中そんなに捨てたもんじゃないということを必ず教えるよ、エマ…。



 分厚い雲の下、香港国際空港は突然現れた。


「――新空港は香港返還と同時にオープン予定だったんですけどね。色々あって2年遅れでのスタートです」


 わざわざ空港まで車を出してくれたちん兄さんの実兄、陳永康チェン・ウェンゴン氏は、オープンしたての香港新国際空港の舞台裏を嘆く。

 九龍サイド北東に位置した啓徳空港時代は、高層ビル群のすぐ上を560トンクラスのジャンボジェットが轟音を巻き上げて飛んでいた。一歩間違えば大惨事になる離着陸ゆえ世界中のパイロットから最も嫌われた空港だった。

 90年代になると、イギリス統治政府主導のもと新国際空港プランが立ち上がった。ところが200億ドルを投じたインフラ事業は、チャイニーズマフィアや悪徳実業家など香港ノワール映画でおなじみの連中たちがはびこる一大活劇だったらしい。


「1年遅れでやっと動き出したけど、いきなりのサーバーダウンや年がら故障する空港エキスプレスのせいで、”世界一呪われた空港”と笑い物でした」


 氏が勤める建設会社が手掛けた橋を越え、車は香港島へに入っていった。


「ようこそ香港へ!息子がお世話になってるわね!」


 玄関に現れたお母さんは大袈裟に出迎えてくれた。

 あちこち連れ出してくれるのはむしろちん兄さんであり、お世話になっているのは俺の方だ。


「さて早速だけど、明日の件で師匠から電話があったわよ。体調のほうは大丈夫?」


 冷たいジャスミン茶のグラスを置くと、お母さんは袖をまくった。

 お母さんは毎朝近所の公園で八卦掌はっけしょうを習っている。その練習に混ぜてもらえないかとちん兄さんを経由して打診していた。


「――実はその件なんですが、あと二人練習に参加させてもらえないでしょうか?」


 まだその二人の意思も確認していないが、手をたたいて喜んだお母さんはさっそく携帯電話を取り出して師匠に連絡した。


 さて、アイツは無事に香港にたどり着けただろうか。

 映画『恋する惑星』の舞台となった重慶チョンキンマンションを見上げる。シンガポールで聞いた「カマルデラックスホテル」という怪しげなゲストハウスは、そこの5階にあった。


「――カナダ人でディランという男ですが、こちらに泊ってますか?」


 香辛料臭い受付で説明していると、部屋の奥であの長身が背伸びをしているのが見えた。


「ファッキン・カンフー!!」


 我々は男の子である。他人の迷惑も顧みず大声を上げて抱き合った。

 そこへ俺より背の低い白人の青年が椅子につまづきながら走ってきた。


「紹介する!コイツが北京にカンフー留学中のクレイジーガイのアランだ!」


 そう紹介された小男はすでに上下紺色のカンフー服を着ており、左手を指先まで伸ばし、そこに右手の拳を当てると深々とお辞儀をした。なるほど、クレイジー指数は半端ではない。


「早速だが君たちに相談がある。明日の朝7時香港島で八卦掌はっけしょうの練習があるんだが興味はあるかい?」


 試しにアランに中国語で話しかけると彼は飛び上がって喜んだ。

 こうして3匹のカンフーバカは、夜遅くまで尖沙咀チムサッチョイの屋台で小籠包を囲んで騒いでいた。

 ”香る港”と書いて香港とする。波止場でスターフェリーを待っていると、潮風に交じってピーナッツ油の香りが漂ってきた。

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