1999年8月1日

 誰かが音もなく部屋に入ってきた時、ふたりは薄いシーツをかぶって眠っていた。

 ふたりとも昨晩この部屋にたどり着いた時のままだったが、床には飲み干したスパークリングワインのボトルが転がり、灰皿代わりに使っていた空き缶もそのままだ。

 ギョッとしてはね起きたが、エマの母親はドアを閉めて出て行くところだった。


「同じベッドにいるところを見られたんだぞ!」


 バンコク最後の朝だというのに、ほとんどラブコメディーの展開だ。

 エマはあくびをしながら寝返りを打つと、ベッドの脇に置いた俺のマルボロメンソールから一本抜き出し、火をつけて再び目を閉じた。


「…別に裸で抱き合っていたわけじゃないわ。それににアタシのことなんて見えてないから」


 アンタはそれでいいかもしれないが、俺はこの瞬間にも機関銃でハチの巣にされるかもしれない。サンダルをつっかけて部屋を出ると、エマの母親は廊下にほうきをかけているところだった。直立不動であいさつをしたが、エマの母親は首を傾げたままだった。


「Who are you?」


 返ってきたのはたった三文字。

 元財務省の高級官僚だけに、簡潔で無駄のない質問だ。


「(彼はアタシのダーリンよ)」


 背後からエマの伸びやかな声がした。

 ダーリンという言葉に思わず目をつぶる。


「(…そう。気を付けなさい)」


 エマの母親は短い感想を残すと、自室に消えていった。



 エマの母親や妹たちは北に200キロのチャイナットという街に親戚を訪ねており、週明けまで帰ってこないと聞いていた。


「そんなこと言ってないわよ」


 エマは勝ち誇ったような微笑みを浮かべた。とぼけているところを見ると、わざと鉢合わせにしたのだろう。


 そうよ、母さん。アタシは死んだ兄さんと違ってふしだらなオンナよ――。

 だがその母と娘の暗闘に巻き込まれた俺はたまったものではない。


 妹のファンポーンは姉と対照的で明るくて社交的な人だった。

 小児科医であるラオス人の夫とチャオプラヤ西岸のトンブリー地区に住んでいる。


「ごめんなさいね!母も姉もああいう性格だからお互い譲らないの。でもこれからは私も友達だから何でも相談してね!」


 彼女のさわやかさに少しだけ救われた気持ちになっていたが、エマはそんな俺を「いい気なものね」と笑い飛ばした。


「妹は我が家のと呼ばれてる。これであなたのことは親戚中にも知れ渡るわ」


 ファンポーンのおしゃべりなかわいい口が、今朝の一部始終をあちこちで再放送する様子を想像した。母の不機嫌はしばらく続きそうである。



――昨晩エマの部屋に戻ったのは22時過ぎだった。

 玄関に置きっぱなしになっていたランブータンの袋とナイフを持って、彼女の部屋にあがった。


「ランブータンは外見はグロテスクだけど、皮をむくと白くておいしい実があるの。アタシと同じように…」


 エマは果物ナイフの刃先をもてあそびながら、真っ赤なスパークリングワインに直接唇に当てた。


「…自分だけが不幸みたいな言い方はやめろ」

「あなたに何がわかるの?」


 エマは果物ナイフをテーブルに置くと、ゆっくりとこちらに振り向いた。


「どんなに美味しいフルーツも次第に飽きてしまうわ。そしてみんな決まって最後にこう言うの。”オレには甘すぎた”って…」


 その知ったようなセリフに一気に沸騰した。


「ふざけるなっ!その賢い頭がどれほど役に立っているか知らんが、俺のことまで見透かしたような口をきくな。アンタは誰にも理解されないと格好つけているが、アンタが一番何もわかってない!」


 もどかしかった。

 この人のすべてが現実離れし過ぎていて、確信できるものは何も積みあがらない。だが俺が求めるのは、一場面だけさらう風変りな「配役」ではない。これからもずっと刺激し、高め合える「存在」だ。

 この数日一緒にいられない時も、横で寝息を聞いているだけの時も、ずっとあなたのことを想っていた。あなたはトゥクトゥクのオッサンに騙された俺を「おめでたい人」と笑ったが、あなたのために何か行動できたことが何よりも嬉しかった。

 それがどういう感情なのか――。アンタは全く理解できていない!



 長い暗闇が閉ざした。


「…もうアタシのことなんか嫌いでしょ?」


 俺の背中に優しい手が伝った。それは胸板を伝い、そのまま下へと落ちていった。


「手をどけろ」


 エマの手を払いのけると、俺は立ち上がった。


「――わかったわ。最後だから素直になりたかったけれど、今のアタシはあなたに抱かれる資格なんてない。でもお願い、バンコクを離れる前にアタシの目を見てこう言って」


 エマは顔をあげると強引に俺を向きなおらせた。その目は涙でぬれていた。


「ポム・ラック・クン《愛してるよ》…」


 その言葉をゆっくりと反芻すると、エマは幸せそうに頷いた。


「チャン・ラック・クン《愛してるわ》。絶対に他の人に言っちゃダメよ」


 月明りでその表情はよく見えなかったが、この時はじめてエマの地肌に触れることができた。重い鎧を脱いだ彼女は、そしてゆっくりと唇を重ねてきた…。



 あの日の夕方、エマが座っていた木製の椅子には妹のファンポーンが座り、うちわを手に涼んでいる。すべてはこの玄関から始まった――。


「…気を付けて。お手紙待っているわ」


 持たせてくれたビニール袋には、昨晩食べきれなかったランブータンが皮を半分むかれた状態で入っていた。


「ありがとう。今度はふたりで食べよう」

「楽しみにしてるわ」


 エマの姿が涙でゆがむ前に、ふたりが出会った雑踏の中に走っていった――。

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