1999年7月31日
「デートしましょ」
市場で買ったランブータンを提げて行くと、エマはほんのりと香水を振りかけて待っていた。エマは忙しく俺の唇を奪うと「すぐに出かけるわ」と俺の手を引いた。
ボートに乗り、茜色のバンコクを上る。
「どこに連れて行くんだ?」
チャオプラヤ川が運ぶ風に髪をなびかせながら、エマは嫣然と微笑んだ。
「バンコクに来てあなたが見たものってラッキーブッダとアタシのおっぱいぐらいでしょ?ここを出発する前にもう少しバンコクについて知ってもらいたいの」
耳元でそうささやくと、エマはボートの進む先を見つめた。
ボートを降り、さらにバスに乗り継いでたどり着いた場所は、バンコクとは思えないほどひっそりした緑の多い一角だった。油や食べ物のにおいなど一切しない。あちこちに意匠を凝らした豪邸やおしゃれなカフェが灯り、東南アジアの喧騒から完全に切り離された上品さが漂っていた。
「ここはアーリー地区という高級住宅街。外国人も少ないしバンコクで一番好きな場所」
エマはキラキラとした目で周りの建物を見上げた。
一軒のカフェに入った。ガラス張りのこじんまりとした建物の中には、濃い緑のフカフカな絨毯が敷き詰めてあり、カウンターやテーブルはウォルナット材で統一されており、まるで森の中をピクニックしているかのようだ。
エマはそこの若い女性オーナーと知り合いのようで、抱き合ったりしてしばらく話し込んでいた。
「ここのオススメはキャロットケーキよ。ウサギちゃんも食べてみる?」
こんなに楽しそうなエマを見るのは初めてだ。
メニューには、ルイボスティーやルバーブティーなどスノッブが好きそうな飲み物が並んでいる。俺はスイカのフラッペを注文し、エマはキャラメルマキアートを頼んだ。エマがおススメするキャロットケーキは、レモンピールがふんだんに使われており、一口運ぶとほろ苦さが広がった。
「ウサギちゃん、おいしいでしょ?」
「その呼び方はやめてくれ。今夜あたりオオカミになるかもしれないぞ」
エマは「まあ怖いこと」と笑って受け流した。
カフェを出て、静かな街路樹の下を歩く。
エマは基本的に外では手すら握ってくれない。「外でイチャイチャするなんてだらしないわ」と修道女のような信念を持っている。しかし今夜は違った。エマは自ら腕を絡めてきて、黙って下を向いている。
「まだあったのね…」
白い外壁に囲まれた3階建ての前で彼女は足を止めた。
「――ここはかつてアタシたちが住んでいた家よ」
フェンスの内側には紺のBMWが停まっていた。
エマはフェンスにつかまると、首を伸ばして中の様子を覗いた。
「見て。あそこにブランコが見えるでしょ?あれは父がアタシたちのために作ってくれたもの」
大きなガジュマルの樹にゆりかごのようなものが吊るされていた。他にも彼らが住んでいた当時の面影を見つけては、エマはいちいち説明してきた。
フェンス越しに何を思うのか。
庭で兄弟たちと暗くなるまで遊んだ日々のことか。
あるいは不遇の最期を遂げた兄や父のことか――。
「いいえ、憎しみよ。アタシや妹を大事にしなかった両親への恨みが80%、ずっと両親の愛情を独占できた兄に対する嫉妬が10%。そして自分の無能に対する絶望が10%」
月明りに照らされたエマの顔は恐ろしかった。
「それは全部過去だろ?」
「そうね。でもここがすべての出発点なの。さっきカフェでお話ししていた子はウチの隣に住んでいた。あんな趣味的で儲かりもしないカフェをいつまでも続けられるのは、父親が今もここに住んでいるからよ」
エマは小馬鹿にしたように、隣の立派な建物を顎でしゃくった。
「あのキャロットケーキはアタシが教えてあげたもの。勝手にメニューに載せているけれど、あんなにレモンピールを入れたら台無しだわ」
たしかにレモンピールの味が勝ちすぎてちょっと苦すぎた。
どんよりとした空にエマは乾いた笑い声を立てた。だが後味が悪いのはキャロットケーキだけではない。
「だったらなぜこんな場所に俺を連れてきた?」
見るとエマの頬に涙が伝っていた。
「ごめんなさい。アタシどうかしてるわ。でもアタシってこういう人間なの。ここに来ると辛くなるのはわかっていた。でも抑えられなかった。そして今ものすごく後悔している」
エマはしゃがみ込むと嗚咽を漏らした。
「アタシの頬を叩いて!」
エマは急に立ち上がると、俺の手を強く引っ張った。
「あなたが責めてくれなければアタシは自分でこの気持ちを処理しなければならない。だからアタシの頬を思いっきり叩いて!」
何を言っているのかわからないという風に首をかしげていると、エマはいきなり自分の頭を拳で叩き始めた。慌てて彼女の手をつかみ、暴れる彼女をがっちりと抱きしめた。
「後悔したければ勝手にすればいい!だが俺はアンタとの未来にしか興味がない!アンタのコンプレックスも含めて全部受け止めてやる!」
エマはしばらく俺の胸の中で涙を流していた。
「…さあ、帰ろう。今夜は話すことがたくさんある」
手を挙げると、俺はタクシーを拾った。
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