1999年7月18日

――拝啓 楊莉華ヤン・リーファ様。

 僕は今、マレーシアの首都クアラルンプールに来ています。このホテルはチャイナタウンの真ん中にあり、一階の屋台から八角煮の香りが漂ってきます…。


 ミネラルウォーターを一口含むと、ふたたびペンを取ってポストカードに向かう。ペタリン通りに面したこの宿からは、バックパッカーたちの大好物である屋台や偽物ブランドを並べた露店商が見える。

 昨晩そこで食べたバクテー(肉骨茶)は絶品だった。豚肉を八角やシナモン、しょうがなどと一緒に煮込んだマレーシア料理で、中華系移民の味と東南アジアのスパイスが土鍋の中で見事に融合していた。


 クアラルンプールに入るバックパッカーたちはチャイナタウンを目指す。そこには安宿が集中しており、なおかつクアラルンプールを形容する見どころへのアクセスもいい。

 東南アジアの屋台飯をかき込みながら、クアラルンプールの新たなシンボルとなったペトロナスツインタワーの淡い光を見上げた。



<――新婚旅行はどこに行きたいか聞いた時、あなたは”シンガポールに行きたい”と答えてくれましたね。そのシンガポールにとうとう一人で来てしまいました。ごめんなさい>


 彼女と約束したシンガポールを離れる後味はひどかった。小莉シャオリーは初めての恋人であり、もはや臓器の一部といってよかった。

 それが強引に引き裂かれた過去についてはすでに述べてきた。それから半年ほど過ぎたが、いまだに鈍い痛みが体の中にぶら下がっていることを思い出す。

 

「待っていてほしいといわれれば、わたしは上海を離れてずっとあなたを待つつもりでした」


 それなのに、と小莉シャオリーはパリからの電話で俺を責めた。

 小莉シャオリーを日本に留学させたかった。同じ大学に通い、季節を巡りながら一緒に学びたかった。しかし大学生がいくつアルバイトを掛け持とうと、一年で70万円を貯めるのがようやっとだった。その傍らで蘇州の金持ち御曹司は、彼女にヒスイのネックレスや高級腕時計を贈り、挙句には新築マンションの鍵までチラつかせた。そうした身勝手な贈り物を小莉シャオリーは迷惑に思っていたようだが、蓄えのすべてを賭けてまで豊かな将来への橋渡しをしてくれた両親に対する感情は複雑だった。

 もちろん俺にはマンションの一室などとても用意できない。ばかりか、せいぜい目の前のペタリン通りにあふれているシャネルやヴィトンの偽物が精一杯だ。

 しかし財力の問題だけではない。何より俺はまだ大学生であり、小莉シャオリーの両親に対して言えるのは、「かならず娘さんを幸せにします!」という根拠のないどこかで聞いたようなセリフだけだった。


 それでも無駄なことだと理解できず、勝手に二人分の幸せを背負い込んだ俺が愚かだったのか――。


 しいていえば、期待をもたせるようなことを言い続ける小莉シャオリーもよくない。最終的に蘇州の金持ち御曹司を選んだのは、小莉シャオリーなのだ。それが<今も上海のアパートであなたの帰りを待ち続けています>とは、さすがに無理がある。

 俺は彼女を留学させるために貯めてきたものを散財させることで、強引に諦めようと考えた。それが前回のヨーロッパ旅行である。そして今またシンガポールのようにいつかふたりで行こうと話していた場所も一つずつ塗りつぶすことで、なんとか現実を受け入れようとしている。

 妄想や美化で膨らみきった恋を着地させるには、自らの手でふたりの将来を破壊し、後戻りできないように閉じていくしかない。


 いまさら何の義理を感じる必要もないが、それでも小さな裏切りを積み重ねていく旅は想像以上に苦しかった。

 パリでもシンガポールでも、「なぜ俺ひとりが後処理の痛みを負担しなければならないのか」と黒く思ったりもした。これはふたりの間の出来事のはずだ。彼女には彼女の事情があったにせよ、小莉シャオリーだけ傷つくことなく金持ちと幸せになっていくのは気持ちの上でも納得できない。

 そして何より許せないのは、「それでもあなたを待っています」と出来もしない約束で俺を引き留めようと小莉シャオリーの言動だ。

 どう考えてもふたりに未来はない。今の俺にできることは、もうこれ以上惨めな戦いに自分を巻き込ませないことだ。にもかかわらず、まるで「やり残したことがある」と言わんばかりに俺を繋ぎ止めようとするのはなぜだろう。


 もう一度会って、信じたものを確かめるべきではないか。

 ポストカードに言葉を書き綴りながら、ふとそんな考えに思い至る。


 どのみちこの先の旅程で上海をかすめることになる。そこでもう一度会って、きちんと決着をつけるべきなのかもしれない。その上で諦めるべきならハッキリと伝えてほしい。「今もあなたを待っています」などと気を持たせるのはやめてくれ。もうこれ以上何かを悟らせないでほしい――。



〈…来月上海に行きます。色々整頓するためにも最後に会ってお話ししませんか〉


 8月6日の朝、和平飯店のラウンジにてお待ちしていますと締めくくった。

 きっと後悔だらけのカフェになるだろう。しかしその苦みによって、人を愛することを終わらせることができるかもしれない。


 不見不散ブジェンブサン(会えるまでずっと待っています)。

 余白にそう書き込むと、ゆっくりとベッドから起き上がった。

 天井の大きなファンが、東南アジアの湿度をかき回し続けていた。

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