1999年7月17日
カナダから来たディラン・ファーカーは、カンフーを習得するために香港を目指している。ベンクレーン通り49番街のベッドでは彼の長身は収まりきらず、ドミトリーの住人たちはベッドからはみ出た臭い脚を迷惑そうに避けていた。
ディランは面倒くさそうに起き上がると、ただですら狭いドミトリー部屋で柔軟体操をはじめ、それが済むと両手を胸の前に構えてゆらゆらと気を練り始めた。
「ほう、太極拳か?」
中国京劇部副部長をナメてもらっては困る。
こちらは13歳からカンフーの道場に通っているのだ。
高校では器械体操部に所属していたが、大学でその跳躍力や柔軟性を活かせる場所がなく、ほとんど廃部に近かった「中国京劇部」のドアを叩いた。
京劇が好きすぎて北京に留学してしまった先輩に代わり、新たに<カンフー部門>を立ち上げた。「護身術にカンフーはいかが?」というノボリを出したところ、愚かにも20人近い新入生を集めてしまった。
「駄目だ。その右手はもっと脇を絞るように引くんだ」
ディランのへなちょこカンフーを座視できず、つい口を挟んでしまった。
やがて他の乱暴者から「二人ともFuckだ」と睨みつけられた。
「…仕方ない。飲みに行こう」
ディランの肩をたたくと、俺は照り付ける表通りを指さした。
ラッフルズホテルのロングバーは、名物カクテル「シンガポールスリング」を目当てにした観光客でにぎわっていた。
マラッカ海峡に沈む夕陽を閉じ込めたピンク色のロングカクテルが運ばれてくる。ジンにチェリーヒーリング、パイナップルジュースを加えてステアし、カットパインやシロップ漬けのサクランボを添えたら召し上がれ。
ディランは運ばれてきたそれをそのままテーブルの端によけると「カンフーは殺人術ではない」といきなり穏やかではないことを語り始めた。
「It’s a way of the human being! (人生そのものだ)」
あまりにも大雑把な感想に何も出てこない。
人としての道を説くなら、まず少し声のボリュームを下げるべきだ。周囲は運ばれてきた一杯を片手に記念写真を撮っているというのに、この野郎二匹のテーブルはあまりにも場違いである。
顔つきまですっかりブルース・リーになったディランだが、シンガポールスリングで何回か喉を潤しているうちにみるみる顔が赤黒く曇ってきた。このカンフーボーイはそれでも半分ほど飲むとお絞りで顔をゴシゴシ削りはじめた。これほど弱すぎる酔拳では、その辺を歩いている小学生にも張り倒されることだろう。
すっかり酔拳モードになって怖いものがなくなったのか、ディランは公然とシンガポール批判を始めた。3日前MRTというシンガポールの地下鉄構内で、地元のオッサンに怒鳴られたという。
「ホームでペットボトルの水をちょっと飲んだだけなんだ。そしたらユン・ワー(※元華。香港のアクション俳優)に似たオッサンから、『おい、貴様!罰金を払いたいのか!』といきなり怒鳴られた。このクソ暑いのに干からびて死ねっていうのか!」
ディランは収まらないとばかりに拳を振り回している。
Fine city。この場合のFineとは「よい状態」や「洗練された」という意味ではなく、「罰金を科す」のfineである。
シンガポールは、建国の父リー・クワンユー率いる特殊な独裁国家だ。建国以来、人民行動党の実質一党支配であり、政府批判は許さん、ポルノは見るなと、何かと国民にやかましい。
MRT内での飲食には500シンガポールドル。路上喫煙には1000ドル。チューイングガムの国内持ち込みには1万ドル。
外国人だからという例外は認められない。1993年停めてあった車にスプレー缶を吹きかけてバカ笑いしていたアメリカ人のクソガキが逮捕された。当時のクリントン政権も「どうか寛大な処遇を」と嘆願書まで出したが、結局シンガポール政府は彼を木に縛り付けてズボンを膝下まで下げると、その生意気なおケツに鞭を4回しならせた。こうして18歳の少年は、シンガポール土産にミミズ腫れしたケツを持ち帰ることになった。
こうした厳格さについては、ガイドブックにあるように「多民族国家だから」という説明でおおよそ足りる。7割を占める中華系のほか、マレー系、インド系など様々な人種が東京23区程に暮らしている。
罰金制度は、共存ルールをもっとも分かりやすい形で示している。男子校出身者としては非常に合理性を感じるところだ。おそらく飛行機で乗り合わせた<杭州新興旅游団>の連中など、今だに空港から1mmも動けなくなっているに違いない。
カンフーボーイのディランと香港での再会を約束をした。
「
さすがの俺もカンフーのためだけに海を渡る自信はない。なるほど確かにクレイジー指数は桁違いだ。
「ファッキン・カンフー!」
ディランは手刀で空を切ると奇声をあげた。
「いいなそれ。合言葉にしよう」
拳をぶつけ合い、もう一度「ファッキン・カンフー!」と罰金レベルの叫び声を上げると、俺は手を振って街の北側に駆けていった。向かうは国際バスターミナル。マレーシアの首都クアラルンプールまではバスで6時間だ。
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