1999年7月19日

 チャーハンの「チャー」は漢字でどう書いたか。それを思い出そうとしていたら腹が減った。調査も兼ね、通りの向かいで広東料理の看板を出している屋台に出かけた。店の外に並べられた丸椅子で「炒飯」をかきこみ、今日も刺すような太陽を見上げる。


 タバコをくわえ、宿に戻ろうと路地を横断している時だった。突然近づいてきたモーター音に振り向く間もなくはね飛ばされた。

 右の太ももに激痛が鳴り響く。

 路地の真ん中に倒れたまま薄目を開ける。右足以外異常がないかすばやく神経をめぐらせたが、倒れた拍子にあごの下を少し擦りむいた他は傷を負っていないようだ。


 野次馬どもが携帯電話のカメラをかざしながら騒いでいる。手を貸してくれる優しさは一人も現れない。スクーターごと体当たりしてきたオッサンは数メートル先で派手に転がっていた。ここは屋台や雑貨屋が立ち並ぶ見通しの悪い一角である。そこをスピードも落とさず突っ込んできた感覚に問題がある。

 拳を突いてゆっくり立ち上がると、構わず大声を出した。


「あぶねぇじゃねぇか!どこ見てやがんだ馬鹿野郎ぅ!」


 クアラルンプールの喧噪に爽快な江戸弁が響き渡る。

――狭ぇ路地だってことが見てわからねぇような眼だったら、くり抜いて銀紙でも貼っときやがれ、このべらぼうめ!

 江戸の職人家系の痛快な啖呵が効いたのか、団子鼻のオッサンはガニ股になって後ずさりをした。


 だがこの辺でやめておこう。

 骨に異常はなさそうだが後でひどい腫れを起こすかもしれない。漢方薬局なら角を曲がったところで見た気がする。とりあえず湿布を手に入れて部屋に戻ろう。

 通じるかわからなかったが、「とっとと失せやがれぃ!」とそこにいた全員に中国語で叩きつけた。ところがオッサンから返ってきた言葉に耳を疑った。


「どうか警察には連絡しないでくれ!」


 打ち所が悪ければ、ここクアラルンプールが俺の死没地になっていたかもしれない。この期に及んで免許没収や科料の心配が先立つとは、もはやつける薬がない。

 だが「勘弁ならねぇ」には違いはないが、再び足を引きずって進み出した。するとオッサンは倒れたスクーターを端に寄せ、「そこで待っていてくれ!」と述べどこかへ走っていった。

 先刻まで炒飯をかき込んでいた屋台の椅子で右の太ももをさすっていると、オッサンは黄色いビニール袋を提げて戻ってきた。中にはよくわからない塗り薬が入っていた。俺が欲しいのは炎症を抑えるための湿布薬と鎮痛薬だ。はねつけようと思ったがとりあえず誠意はわかった。


「どうか警察だけは勘弁してくれ!」


 団子鼻のオッサンはテーブル越しに俺を拝み続けた。

 己の保身について被害者側に持ちかけるなどどうかしている。やはり警察に入ってもらったほうが話が早いかもしれない。

 俺は冷めた目で「ポリス!」と言い放った。するとオッサンはポーチの中から何やら取り出し、それを黄色いビニール袋の上にたたきつけた。


「天然ヒスイだ。これもやるからどうか警察だけは勘弁してくれ!」


 生憎だったな、オッサンよ。

 俺の親父は宝石鑑定士だ。その俺に安価なイミテーションなど通用しない。

 一応手に取ってかざしてみたが、全体的に軽く、ヒスイ特有のひんやりとした重みはない。よくて漂白後に染色しなおしたC貨ネフライトか、あるいはルーペで覗いたらプラスチック加工特有の気泡が見つかるかもしれない。

 いかにもペタリン通りの偽物臭がした。しかし「親戚の叔父からもらって大事にしてきた」というので、それ以上は黙っておいた。


「もういい。こんなものはいらない」


 たとえガラス玉のおもちゃだとしても、こんなものを巻き上げて気持ちいいわけがない。


「頼む!これが精いっぱいなんだ!」


 オッサンは団子鼻の上に汗をかきながら、ほとんど半泣きになっている。埒が明かないので生返事をして切り上げた。

 一旦はこうして示談がまとまろうとしていたが、オッサンの不用意な一言のせいで事態は爆発的な状況に逆戻りした。


「――ミドリという漢字は、良縁の”縁”という字と似てるだろ?だから我々中華人はヒスイが良縁を運んでくれると信じてるんだ」


 こちらのどす黒い表情に気付いてオッサンはあわてて口を閉じた。

 スクーターごと他人に突っ込んでおいて何が良縁だ。そういう言葉は相手の機嫌がいいときにするべきだ。屋台に転がっている中華包丁でオッサンを真っ二つにしてしまう前に、やはり警察に電話すべきだろうか。

 オッサンの無神経に改めて腹が立ったが、とりあえず命拾いしただけでもマシとしよう。無理やり握らされた緑色のガラス玉に免じて立ち上がった。



 部屋に戻ってズボンを脱いだら、右の外腿はアザで黄色く変色していた。痛みは強かったが、旅を諦めなければならないほどでもなさそうだ。


<――人生の10%は想定外の出来事で決まる。だが90%は起こったことにどう反応するかで決まる>


 伝説のアメフトコーチ、ルー・ホルツの言葉と言われている。

 その名言を今日の出来事にどう当てはめたらいいか悩むところではあるが、ひとまず無理矢理にでも飲み込んでしまおう。


 明日には街の喧噪を離れ、東南アジアのリゾートアイランドを目指す。

 手首に巻き付けたヒスイは偽物だろうが、せめて縁だけは本物を呼び寄せてもらいたい。笑顔だけは絶やさぬようにしていこう。

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