1999年3月2日

 本当の受難はルクセンブルグ中央駅からだった。


 ノイシュバンシュタイン城を出発した俺は、ルクセンブルク大公国まで推定8時間の列車の中にいた。広がり始めた空を眺めながら、久しぶりの上機嫌を楽しんでいた。

 途中駅でLimited Expressという表示が目に入った。だが直観的にそれに乗り換えたことが仇となった。その特急には「2駅先から各駅停車に戻る」という罠が仕掛けられており、気付くと元々乗っていた列車に追い越されていた。


 俺一人を乗せた列車がルクセンブルグ中央駅にたどり着いたのは深夜2時のことだった。ホステルには途中駅から連絡を入れておいたが、とにかく急がなければならない。深夜の客待ちタクシーを拾うべきか迷っている場合ではなかった。


「――すみません。このホステルまでお願いしたいのですが」


 そのタクシーには、映画『ミッション・インポッシブル』のトム・クルーズがハンドルを握っていた。このハンサムなドライバーは、こちらの問いかけに一言も発さず、しばらく難しい顔をして日本語で書かれた地図を睨んでいた。


「ただ、たった今ルクセンブルクに着いたばかりなのでこれしか持っていません」


 俺は握りしめたルクセンブルク・フランを示した。駅前のホテルで日本円の両替を拒まれたため、使い残したドイツ・マルクを悪レート承知で両替してもらった。

 ルクセンブルク中央駅から目的のホステルまでいくらかかるかわからないが、少なくとも手持ちのフランだけでは不可能な任務であることには間違いない。


「(――ツイてない夜だ)」


 トム・クルーズはそうつぶやくと、ようやくエンジンキーをひねった。任務に忠実な彼は、こちらの手持ちを超えてもなお献身的に目的地を探してくれたが、とうとう時間切れとなった。


「(――すまないがこの辺りのはずだ。健闘を祈る)」


 彼の指差した先には、ペトリュス川にかかる真っ黒なアドルフ橋が立ちふさがっていた。



 折り畳み傘を取り出す。

 真夜中の冷たい雨の中、予約した清潔なベッドを求め、黒く湿ったレンガの中をさまよったい。どう空を仰いでも、瞬時に静寂が耳をふさいだ。

 雨に濡れた腕時計をこすると、すでに深夜3時を回っていた。屋根に守られたバス停を見つけると、腰を下ろして冷たくなった指先で最後の1本に火をつけた。


――小莉シャオリー

 世界のすべてだった人。その物語を断ち切るために旅に出た。

 最初は、上海で行われた日中交流イベントだった。彼女は通訳としてそのパーティーに参加していた。

 

<あなたからの手紙だけが楽しみです!>


 そんな言葉で結んでいた文通は、いつしか<一日も早く会いたい>という微熱を帯びるようになった。そして高校卒業から大学生活が始まるまでの1か月、俺は春の上海で暮らした。その1か月で体験したの中には、ご両親に「娘さんをください!」というシーンもあった。


「…来年の春、また会いに来ます」


 指切りし、永遠を誓った。

 帰国後、俺は楽しいキャンパスライフを一切断り、空いている時間は全てアルバイトに注ぎ込んだ。小莉シャオリーを日本に留学させたい。その想いにすべてを犠牲にした1年が過ぎようとしていた。

 ところが海の向こうにいる大学生の約束など当てにならないと考えた小莉シャオリーの両親が、蓄えを撒いて金持ち一族との縁談を引っ張ってきたのである。


〈――わたしにはあなたしかいません。どうか信じてください〉


 しかしご両親の期待どおり蘇州の金持ち次男坊は、聡明で美しい小莉シャオリーを手に入れたくなった。

 彼女の実家には一部屋では収まらないほどの贈り物が届けられ、やがては純金の指輪付きの新築マンションの鍵が届けられたのである。


<…もうわたしの意思ではどうにもならない状態になってしまいました>


 それとなく終わりを告げられたのは、クリスマスに向かって街がキラキラし始めた頃だった。それ以上直接的な言葉は聞きたくなかった俺は、自分から「わかりました」と告げるとそっと受話器を下ろした。

 この1年大学生活を謳歌するクラスメートを尻目に、アルバイトを3つも掛け持ち、狭い終電に揉まれながら中国語のテキストを開いてきた。しかしどうにか保ってきた際どさがとうとう切れてしまった。


――そうだ、旅に出よう。

 そしてできるだけ上海から遠いところに行こう。

 ちょうどそんなタイミングでのスナフキン先輩との出会いも大いに勢いづけてくれた。カネならある。ふたりのために作った口座の暗証番号は彼女の誕生日だった。そこから航空券やホテル代を支払うのに躊躇したが、”そんな未来はないのだ”と諦めるためにも思い切る必要があった。


 約束の春は、もう来ない。

 そして今、誰も知らない真夜中のバス停でうずくまっている。小莉シャオリーは世界のすべてだった。彼女と指を絡めて語り合った物語が聞こえる。


<…寒いですか?寂しいですか?私も寂しいです。ずっとあなたを待っています>


 ダメだ。前に進まなければ。

 暗闇を睨んでいても始まらない。立ち上がって歩き出さなければこれからも雨に打たれたままなのだ。


「泣くな!」


 声に出して自分を励ましたが、雨と同化した感情がいくつもこぼれた。


<――降りやまない雨はない。フランス人ならそう言って笑うところだな>


 スナフキン先輩の声が聞こえる。

 これから何を生き甲斐にしていったらいいのか。ルクセンブルグの黒い空から冷たい涙は降り続けた。

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