1999年3月1日

 凍った雪にザクザクと三脚を突き立てる。

 正面にノイシュバンシュタイン城をとらえてカメラを固定した。ズームを合わせタイマーを5秒に設定すると、並んだ仲間たちのもとに駆け出した。ところが駆け出して数歩で足を滑らせ派手にこけた。

 全員が地面を指さして笑っているのが1枚目。

 気を取り直して臨んだ2枚目も、列に加わった瞬間足元の氷に呪われた。


 フランクフルトから5時間半。ドイツ・ロマンティック街道の終着駅フュッセンに到着した。ホステルの中庭からは列車が追いかけていた月がよく見えた。


「やっぱり山間部は冷えるなぁ!」


 いきなり山の話を始めたのは仙台から来たという大学4年生だった。卒業旅行にオーストリア・アルプスを目指しているという。喫煙者に空気がうまいもまずいもないが、このワンゲル部副部長はラッキーストライクに火をつけると漆黒の闇を見つめて大袈裟な感想を述べた。


「――ところで今ラウンジで早稲田のヤツとしゃべってたんだけどジブンも来る?」


 食堂にはすでに数人集まっていた。こちらに気付いた何人かが「こんばんは!」と明るい声をかけてくれた。


「――さてと。ティーバック、いくつ開けます?」


 ワンゲル野郎が言う「早稲田のヤツ」とはこの男で、彼は忙しくテーブルに人数分の紙コップを並べていた。卒業後はコピーライターと決めているらしい。その修行も兼ね、日記代わりに俳句を詠んでいるという変わり者だ。ワンゲル野郎とはミュンヘンで意気投合して以来、「おい芭蕉!」と雑に扱われている。


「お客さん増えたから追加1個ね!」


 芭蕉にそう指示を出した坊主頭は、カツオ漁で有名な御前崎の話しをしてくれた。


「毎年冬になると校庭に男子だけ集めさせられて、カツオの人形を結び付けた竿を持たされるんです。『カツオ釣り体操』っていうんですけど、地元漁師の掛け声に合わせてそれを釣りあげる運動を死ぬまでやらされるんです」


 その再現に一同腹を抱えて笑ったが、1人だけ端座したままの男がいた。


「――水は70度でお願いします」


 静かに、しかし毅然と述べた彼は裏千家の三男だ。

 リプトンのティーバックで侘茶の極意を披露せよというのだから、もはや虐待としかいいようがない。こちらはワンゲル野郎からは「利休!」と敬意の欠片もなく小突かれている。

 利休はティーポットから人数分注ぐと、伏し目がちに「どうぞ」と添えた。しかしこの紙コップから立ち上る馥郁たる香りはどうだ。とても一袋数円のティーバックとは思えない香しさに気持ちが和らいだ。


「やるじゃないか、利休!」


 ワンゲル野郎はとうとう太閤秀吉に昇りつめた。大騒ぎして利休の肩を揉んでいる。こうして「芭蕉」に「利休」という日本文化の大看板がそろったパーティーは夜も12時近くまで続いた。


「――俺たちワンゲル部じゃ連帯感を出すためにあだ名で呼び合うんだ」


 だから何だという視線がワンゲル野郎に集まる。確かに彼が最年長ではあるが、それぞれ思うところあって旅に出てきており、たまたま宿が一緒になったというだけの縁である。


「”ホスト”も今日から仲間だから!」


 ワンゲル野郎はバシバシと俺の肩を叩いた。

 肩まで伸びた茶髪とバックパッカーらしからぬジャケットのせいである。

 ウィーンではクラシックコンサートを楽しみにしており、ガイドブックにドレスコードうんぬんと書いてあったため結果である。それを歌舞伎町のホストと重ねられてはたまらない。壁に寄りかかっていた”カツオ釣り体操”改め「カツオ」は俺を見て笑った。

 結局はワンゲル野郎の情熱に巻き込まれる形で、たまたま一夜を同宿しただけの縁を「ジャパン・ドリームチーム」として編成されてしまった。



 ノイシュバンシュタイン城について知っていることは少ない。

 ルートヴィヒ2世が国家財政を傾けてまで建造した壮麗なおもちゃであり、居住施設としての実用性も歴史的価値もなく、したがって世界遺産にもカウントされていない。

 大好きだけに囲まれていたいという子供のような無邪気さを貫いたバイエルンのメルヘン王は、死後この城を破壊するようにと言い残した。ところが今や年間100万人が大騒ぎして押し寄せる観光名所となっており、きっとあの世のルートヴィッヒ2世は今頃発狂していることだろう。


 我々5人はワンゲル野郎の不要な叱咤激励に追い立てられ、観光馬車など頼らず、雪の城門を自らの足でくぐった。

 その強行突破の最中、利休は凍った坂道に足を取られ大事な望遠レンズをただの鉄のかたまりにした。芭蕉とカツオは観光馬車が落としていった馬糞に豪快に足を突っ込み、アメリカ人の一行から大リーグ級の笑いを奪い取った。俺は記念撮影の転倒で凍った岩に右ひざを強打し、仲間の肩を借りながらの攻城となった。

 最後に悲鳴を上げたのはワンゲル野郎だった。


「やべぇ!大事な日記をホテルに忘れてきた!」


 程度はともかく、全員が「ルートヴィヒ2世の呪い」を浴びた。

 だがみんな笑った。誰かが不幸に遭うと、肩を貸して荷物を背負ってやり、ケツについた泥を払ってやった。

 壮麗なノイシュバンシュタイン城を背景に記念撮影を済ませると、ワンゲル野郎から解散宣言が出た。


「楽しかったぜ!ありがとう」

「また日本で会おう!」


 一足先に駅へと向かう背中に「よい旅を!」といくつもの声が降ってきた。俺は軽く手を挙げてそれに応えた。

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