1999年2月28日

 駅の巨大な時計が夜9時を知らせていた。

 フランクフルト中央駅前は閑散としており、動くものといえば、うつむきがちに家路に向かう紳士が一人と、駅に住み着いた黒猫ぐらいだ。


 46番トラムは駅前広場で静かに乗客を待っていた。大きな荷物を背負った俺に、席についていた3人の老婆がヒソヒソと耳打ちし合った。定刻になったのか、運転手はいきなりドアを閉めると、何のアナウンスもなく夜霧の中へと滑り始めた。

 老婆たちが時折寄越す視線をやり過ごす。奇異といえば彼らのほうで、3人とも上下黒のピチッとしたスウェットを着ており、教会で祈りを捧げてきた帰り道とは思えない。仮に「フランクフルトの老キャッツアイ」というあだ名を思い付き、夜霧漂う石畳を眺めながら半笑いした。


 ところで、ホステルの最寄駅となる「フランケンシュタイナー小学校駅」にはどのぐらいで着くのか。

 旅程が決まると、東京のユースホステル協会を訪ねた。現地に到着してからの煩わしい宿探しを、事前予約と一括前払いで解決させたのである。フロントに着いたら、簡易地図と支払証明が一体となったA4紙を示せばよい。

 薄いブルーの『ユースホステルガイド』には、主旨通り<少年少女の旅のための安全かつ安価な宿泊施設>が街別に紹介されている。しかし立地は主要駅から徒歩5分というわけにはいかない。市バスや路面電車を乗り継ぎ、地図を頼りに住宅街に埋もれた小さな看板を探し出さなければならない。今宵の宿となるホステルの支払証明書には、棒と丸だけの頼りない地図に「フランケンシュタイナー小学校から徒歩10分」とだけ書かれていた。


 車内を見回すがヒントも答えも見つからない。仕方なくヨーロッパに降り立って最初の一言を、離れた位置に座っていた老キャッツアイに聞いてみた。深夜のトラムでいきなり東洋人に話しかけられた老キャッツアイたちは、手を取り合って警戒の色を見せた。 

 しばらく口を開けたまま緑色の目をしばたかせていた3人だったが、インターポールから派遣された捜査官ではないことを理解すると、今日までおしゃべりを禁止されていたのか、彼らは一斉にドイツ語をまくしたて始めた。こちらが断片的にもドイツ語を整頓できないことなどお構いなく、俺の手から地図をひったくると、あちこち指差しながらを教えてくれた。

 老キャッツアイたちの「ここで降りたほうが絶対近いから!」という声に励まされて降りた駅は、そこから40分も歩かなければならない的はずれな場所だった。初日から小雨降る暗い石畳の上をさまよう。



 翌朝、降り止んだばかりの石畳を散策した。

 雑貨屋でハムとチーズを挟んだサンドイッチとポストカードを手に入れた。

 日本から持ってきたポケット会話集には、英・仏・独・伊の4か国語が収録されている。カタカナ読みだと諦めず微笑みを添えて話しかけると、誰もが真剣に耳を傾けてくれた。


 ところが会話集通りにいかなかったのは、中央駅から3ブロックほど離れた小さなバーでの出来事だった。

 南部フュッセン行きの列車までまだ1時間ほどあった。少し早目のランチを探して歩いていると、小さな看板を提げたバーの前を通りかかった。中ではビッグマックバーガーのように太ったオッサンが床にモップをかけており、客らしき中年の女がカウンターで頬杖をかいた。営業しているのかわからなかったので立ち去ろうとしたが、こちらの視線に気付いたビッグマックが手招きをした。


「(オレンジジュースを)」


 勧められたカウンターの椅子に腰かけて荷物を置くと、モップを片付け始めたビッグマックに英語で伝えた。しかし奥からグラスを持ってきたのは、カウンターで太い足をブラブラさせていた派手な女だった。

 彼女は薄いオレンジジュースを俺の前に置くと、特に断りもなく横のスツールに座った。そして無理やり太い足を組むと、俺の横顔に意味ありげな微笑みを投げかけてきた。

 しわの寄った谷間から便所の芳香剤のような安物の香水が香った。無視して書き物を始めた俺に何やら吹き込むと、彼女は俺の太ももを軽くつねった。

 もはや通訳不要である。この店の”ビッグマックセット”にはコンドームが付いてくるらしい。事態を悟って立ち上がったが、突きつけられた請求書を見て罠にはまったことに気付いた。

 そこには手書きでただ「100」と書かれていた。ドイツマルクで約7,000円也。

 言葉を詰まらせていると、便所の芳香剤が「(コイツがあたしの太ももを触った!)」と盛大に騒ぎ始めた。そばに控えていたビッグマックも「(テメェの感想なんかいらねぇ!)」とばかりに床にモップを叩きつけて威嚇してきた。



 コートに両手を突っ込んで駅を目指す。

 背後から高笑いが聞こえてきた。悔しさのあまりに近くにあった電柱を思いっきり蹴飛ばした。命に別状はないと諦めるしかないが、ヨーロッパ初日から高すぎる授業料となった。

 月を追いかけて走るこの列車はバイエルン州フュッセンを目指す。変化に乏しい冬枯れの景色を流しつつ、フランクフルトからの5時間半をただひたすら待つ。

 その表情はとても固い。ほんの小さな運の悪さだったのかもしれないが、幸先の悪さに”なんで一人旅なんか始めちまったんだ?”と早速愚痴がこぼれた。


「――高いお布施払ったんだから、せめていい出会いを恵んでくれよな」


 高いところで笑う月を眺め、また一つため息をついた。

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