1999年2月27日

 必要も無駄も全部カバンに詰め、今どこかの空の上を飛んでいる。

 すでに機内食も片付き、薄暗くなった機内のあちこちからは寝息が聞こえ始めた。手帳を閉じると俺も軽く目を閉じた。そして今さらながらこの状況について考え始めた。なぜ一人旅なんか始めてしまったのかと――。


 隣席のパク・ヒョンジュ氏は、冬休みを利用して一時帰国し、今また博士号のためにハイデルベルグの大学へ戻る途中だという。

 ドイツ・フランクフルトを目指すこの翼はソウルからの乗継便だ。朝もやがかった成田を離陸し、韓国・金浦国際空港でヨーロッパ行きの別便に乗り換えた。初めての乗り継ぎに焦っていた頃、パク氏はターミナルのベンチで恋人と別れのキスをしていた。

 きっかけは、機内食で運ばれたピビンバだった。数種類のナムルを乗せたご飯の横に、チューブ入りのコチュジャンが添えられていた。辛いものは好物だがこの後ひと眠りすることを考え、遠慮がちにそれをスプーンに取って食べていた。


<――コイツはピビンバの食べ方を知らないらしい>


 気の毒な隣人に気付いたパク氏は俺の肩を叩くと、真っ赤に焼けただれたご自身のピビンバを指さした。そして俺のコチュジャンを取り上げると、涙が出るほどの親切で他人の機内食に全部ひねり出したのである。呆然とするこちらをよそに、よく混ぜてから食べなさいとそれを顎でしゃくった。

 あまりの辛さに悶絶している隣人を見たパク氏は、理系人間らしい考察を述べた。


「(キミは韓国人ではないな?)」


 首を振りながら”オマエはバカか?”と目で返す。しかしこの冷徹な自信家は「なるほど」と一言述べると、再びご自身の真っ赤なピビンバに向き合った。


「――ところでキミは何をしにフランクフルトに行くのだ?」


 2本目のミネラルウォーターを飲み干すと、俺は彼の問いに答えるべくサイドポケットから黄色い手帳を取り出した。

 ミッキーマウスが行進している手帳の1ページ目に、ヨーロッパの地図が貼り付けてある。赤いボールペンの線は、今向かっているフランクフルトからルクセンブルク経由でベルギーへと上がり、その後アムステルダムへと横に伸びる。そのままベルリンを超え、ワルシャワまで東に進むと、赤線はチェコ・オーストリア・ハンガリーと南下し、再び西へと向かう。イタリア国境に近いスイスの村まで来ると、線は一気に北上し、最後はパリに結ばれている。


「――というわけで、最後はセーヌ川からエッフェル塔でも眺めてシャンパンでも頂こうかと思ってます」


 たどたどしい英語を締めくくると、微笑みを添えて返してやった。

 ところがパク氏はチッチッと顔の前で人差し指を振った。


「ちがう。私が聞きたいのはこの旅にどういう目的があるのかということだ」


 合理主義の彼にとって、旅のゴールをどう祝うかなどより、その壮大な実験における目的や、得られるであろう考察について関心があるらしい。

 しかし恋人を振り切って大学に戻るパク氏には申し訳ないが、彼が納得するような高尚な答えなど持ち合わせていない。ばかりか、今日まで考えたことすらないことに気が付いた。


 ――「あの人」の顔が浮かぶ。

 あの笑顔からできるだけ遠くに行こう…。


 確かにそれは十分な動機ではあったが、ヨーロッパに飛ばなければならない理由にはならない。ヨーロッパはアルバイト先のスナフキン先輩から勧められたからではあったが、21日間に10か国も詰め込めとは言われていない。


 ただ膨大なエネルギーを消費したかった。

 出来るかわからないほどの大きさに挑戦してみかった。


 その選択と集中によって失恋の痛みを忘れたい。そんな中スナフキン先輩との出会いがあり、すべてが有機的に噛み合わさった結果として、今名も知らぬ空の上にいる。

 ヨーロッパ地図に描かれた巨大な赤い渦をたったひとりで消化する。この旅は何かを裏付けるための実験ではなく、すべてを忘れてしまうほどの疲労を味わうための競技なのだ。



 「――まもなく当機は」というアナウンスに機内はふたたび騒がしくなった。しばらく黙っていたパク氏だったが、突然一枚の写真を横から突き出してきた。


「マイ・スウィートハニーだ」


 工学博士らしからぬ、気色悪い表現に戦慄を覚えた。

 そこにはだらしなく緩んだ顔のパク氏が、四角い顔に埋まった小さな目の女性を抱いていた。頭に乗せた濃いベージュの帽子といい、どうも「フーテンの寅さん」にしか見えない。


「人情味があって優しそうな方ですね」


 曖昧にうなづいて写真を返したが、パク氏は「なぜそう思う?」とこちらの社交辞令に面倒な説明を求めてきた。それ以上は言葉が分からないフリをして目を閉じた。

 俺ならそんな感傷的になる写真を手帳に挟んだりしない。今から数週間たったひとりで言葉も通じない旅を続けなければならないのだ。寂しさを誘うものなど持ってくるべきではない。

 パク氏は写真の中で微笑むスウィートハニーとやらを眺めていたが、やがて諦めたように深いため息をつくと、ようやくそれを手帳にしまった。


 なぜ旅に出るのか。その問いに答えがなくても旅は始められる。

 しかしあまりにも衝動的過ぎた。願わくば、旅を終えた時の疲労感がある種の「重さ」になってくれればいいと思う。

 窓の外にうっすらとヨーロッパの灯りが見えて始めた。

 それぞれの想いを乗せた機体はゆっくりと高度を下げはじめた。

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