ノンストップ・アクション1,2~バックパッカー青春放浪記~

マジシャン・アスカジョー

Episode1

~Prologue~2018年12月6日

 ここ数日吹いた12月らしからぬ生ぬるい風はあちこちで話題となった。師走に2日連続で20度を超えたのは統計上初めてのことだとか。


「もう年末だっていうのにいやらしい天気ねぇ!」


 外回りがあるわけでもないくせに、ここ人事部のお局様たちは迷惑そうな声をあげている。暑くても寒くてもどうせ文句だらけの毎日なのだ。お茶でも飲んで静かにしていればいいものを、とりあえず何か言わないとシャキッとしないらしい。

 一体いつからこんな怒りに満ちた日々に迷い込んでしまったのか――。渋い顔を作るとひとつ咳払いをした。


 季節外れの生ぬるい風は、今朝は一転して東京に冷たい雨を降らせた。

 玄関で靴やカバンに防水スプレーを吹きかけていると、「そういうのは匂うから外でやって!」と妻が奥から顔を出した。

 先月二人目が生まれた。妻は寝室からの泣き声に応じつつ、上の娘の支度に追われている。俺は何やらつぶやくとカバンを持って雨の中を出発した。


 舗装されたアスファルトの道も、気を付けないと水たまりに足を踏み入れてしまう。傘の中で身をかがめ、冷たい朝を急ぐ。

 パチンコ屋の前で出しっぱなしになっていたクリスマスツリーが、駅に吸い込まれる傘の群れを見送っていた。以前にも似たような景色を見た気がする。びしょ濡れのクリスマスツリーを通り過ぎようとしたとき、ふとそのモヤがハッキリと像を結んだ。

 ちょうど20年前の1998年12月――。その日の朝も冷たい雨の中を駅へと急いでいた。


 まず思い出すのは、映写室裏の休憩室で壁のシミをぼんやり眺めていたスナフキン先輩のことだ。

 俺も含めてアルバイトのほとんどは大学生だったが、スナフキン先輩だけが30に届こうとしていた。そういう遠慮もあってか、スナフキン先輩は飲み会だ合コンだという我々の喧騒には近寄らず、一人貴族の里に住んでいる風があった。多少の皮肉も込めて「スナフキン」と呼ばれていたが、たしかにムーミン谷の桟橋で釣り糸でも垂らしていそうな雰囲気を漂わせている人だった。


 その日、レイトショー組への引き継ぎを終えると俺はさっさと席をたった。誰かが置いていったラジオが夜から本降りになると繰り返していた。


「…Après la pluie, le beauアプレ・ラ・ プリュイ、ル・ボータン temps。フランス人どもは雨ひとつとってもシャレたことを言いやがる」


 スナフキン先輩はセブンスターを一本引き抜くと、降り止まねぇ雨はねぇってことよ、と勝手に喋り始めた。そして眠たげな目をこちらに向けると、「まぁ座んなね」と椅子を顎でしゃくった。


「最近イラついてるらしいがオンナにでも振られたか。まぁ学生なんだから毎日こんなところでクソバイトなんかしてねぇでヨーロッパにでも行ってきな」


 訳のわからないことをよく言う人だったが、このときは度を超していた。なぜこちらが抱えきれない失恋に苦しんでいることを見抜いていたのか後になって聞いてみたが、「顔にそう書いてあった」と笑うだけだった。

 手に手を取って現れるカップルどもの列を整頓し、2枚分のチケットをもぎる。それだけのバイトだった。失恋の傷を埋めるにはちょうどいい単純作業だったが、クリスマスになってまでそれを続けたことで見えない傷を深めてしまった。


 スナフキン先輩は優雅に紫煙を浮かべると、彼自身を「スナフキン先輩」にさせた1年半におよぶヨーロッパ放浪記を語り始めた。

 花咲き誇るスイスの村。北欧の港を過ぎる夏風。秋深まるミラノ、そして白い息と共に聞いたニュンベルク大聖堂の鐘――。

 彼は出会った人々を風景画家のような優しいタッチで描いていった。その視線は薄汚れた休憩室の壁からほとんど動かなかったが、そこには彼にしか見えない景色が映し出されているようだった。


「旅をすれ世の中案外美しいもので溢れてるってわかる。幸せなんてそれに気付けるかだけさ」


 旅先で手に入れたというロシア語の彫られたZippoライターを開けたり閉めたりしながら、スナフキン先輩は出会ったことのない言葉を続けた。

 しかしこの時彼が語ってくれたある種のオプティニズムが、後の俺の青春を大いに揺さぶり、その一連の出来事によって人格形成までさせてしまったことを考えると、人生を振り返る上でこの大雨のクリスマスは重要な出来事だった。

 それから数日後「俺、ヨーロッパ行きのチケットを押さえました!」と触れ回り、周囲を呆れさせた。理由などどうでもよかった。とにかく旅に出たい。遠くの国に冒険に出たい。その衝動にのみに突き動かされた1998年12月。恋人とクリスマスを過ごしたどの友人よりも俺は幸せだった。


 それから20年が過ぎた。ささやかな幸せを守るため今日も雨の中を急ぐ。誰もがそうして今朝もコートの前をしっかり合わせ、向かい風に身ををかがめて生きている。だが果たしてこの行列は一体どこへ向かおうとしているのか――。

 職場のある人形町に着いた頃には小雨に変わっていた。地上に出ると、誰もがバサバサと傘を広げ、背中を丸めてオフィスに急いでいた。

 あの頃は少しぐらいの雨など気にも留めず人混みの中を駆けていた。それが今朝はタートルネックの下にインナーを重ね着し、厚手のコートを羽織り、その上にマフラーを巻いている。ずいぶん着ぶくれているが、果たしてその中に守るだけの価値はあるのか――。

 一瞬迷ったが、俺は傘もささずに小雨の中を駆けだした。

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