1999年3月3日

 ムール貝の白ワイン蒸しに伸びる手が止まらない。

 グランプラス広場から少し離れたテラス席には、バケツいっぱいのガーリック風味のムール貝と、その汁を浸すのにちょうどいいバゲットが並んでいる。

 ベリーショートの美女が新しい皿を運んできた。


「コレコレ!コレ欠かしたらアカンねん!」


 白ワインビネガーで〆たニシンのオリーブオイル漬け。これは覚えておきたいメニューである。一切れ口に放り込み、あまりのおいしさに声を出して笑う。

 春の訪れを感じるベルギーの首都で、俺と平川氏は午後の日差しを浴びながらグラスを鳴らしてテーブルを祝った。



 ヨーロッパについてから俺を呪い続けた冷たい雨は、ブリュッセル中央駅に着く頃には霧雨になっていた。濡れた石畳を歩くうちに分厚い雨雲は割れ、そこから何条もの陽が差し込んできた。目に映る街並みの美しさに何度も立ち止まりカメラを構える。

 ホテルの廊下で、男が四つん這いになっていた。

 床に大量の白い粉がこぼれており、男はそれを必死にかき集めていた。どう見ても密売人がドジをやった図であり、面白いので無言でシャッターを構えた。ところがこちらのシャッターに気付いた彼は、意外にも粉まみれのピースを向けてきたのである。


「覚せい剤ちゃうねん!」


 平川氏は悲鳴のような声を上げた。


「――ル・プティ・ミトロン(パリの有名なパン屋らしい)のオッサンに頼み込んで分けてもろうたラ・パリス(そこの有名なフランスパンらしい)の生地粉やで」


 平川氏はようやくかき集めた粉の袋を抱えてうなだれた。

 大阪の調理師学校で製パンコースを卒業した彼は、美味しいものに出会うためにヨーロッパにやってきたという。



 先日あるパン職人の密着ドキュメントを見た。

 「粉の魔術師」というエロい異名で紹介されたカリスマは、人のよさそうな広い額に白髪混じりの口髭をゆがめ、どことなくアンパンマンに登場する『ジャムおじさん』を彷彿させた。

 ところが番組は「ココが見どころ」とばかり、19歳の女の子が繰り返し怒鳴られるシーンを繰り返した。激辛ジャムおじさんは新弟子をオタマで殴りつけ、「オマエは生地とぜんぜん会話ができていない!」とスピリチュアルなことを喚き、女の子を泣かせ続けた。粉の魔術師だか知らないが、こんな狂気の練りこまれたパンを評価する人間が間違っている。

 それにしても、パリの名店から分けてもらったありがたき小麦粉をうっかり廊下にぶちまけるなど、激辛ジャムおじさんに言わせれば万死に値する。きっと平川氏は脳漿が飛び散るほど殴られたに違いない。


 『レ・ミゼラブル』の著者ユゴーが「世界一美しい」と評したグランプラス広場は、夜の顔も美しかった。黄金色にライトアップされた歴史が、地ビールをぶら提げた我々を見下ろしていた。細かい話だが、平川氏はここでも粗相をした

 彼は立ち寄った雑貨屋で「チェリービール」というラベルを見つけた。おもしろそうやんとはしゃいでいたが、グランプラス広場が見えてきた辺りでうっかり手を滑らせ、せっかく手に入れた瓶を石畳の上で割ってしまった。


「アカン!やってもうた!」


 優美なヨーロッパの歴史地区に大げさな関西弁が響く。

 今日はほんまにツイてないねんと天を仰ぐが、右手にビール、左手にワッフル、脇にはカカオ80%の板チョコレートをはさんだ状態でプルタブを引こうとする感覚に問題がある。激辛ジャムおじさんのところにいたら、彼は365日休みなく命日となるだろう。


「ところで、おいしいパンちゅうのはグルテンの質と量やねん」


 たった今グランプラス広場にぶちまけたチェリービールのことなど忘れ、彼はいつの間にか頭の中で強力粉をこね始めていた。パンのふっくら感は発酵でできた細かい気泡をしっかり包み込むグルテン構造がすべてやと力説した。

 観光などに目もくれず、美味しそうな香りに鼻をくすぐられれば、ボッタくりも恐れずにレストランに飛び込む。これが平川氏の旅のスタイルだ。たとえ激辛ジャムおじさんに何発鉄拳を浴びせられようと、彼は這いつくばってでも小麦粉に手を伸ばすことだろう。こういう幸せに出会えた人を不幸にするのは難しい。



「――やっぱり元祖はちゃうわ!」


 平川氏は、マヨネーズをたっぷりすくったフライドポテトを口の中に放り込んだ。

 通称フレンチフライと呼ばれるそれは、そもそもここベルギーが発祥なのだとか。大戦でベルギーに来ていたアメリカ人たちが、「フランス語を話す連中(=ベルギー人)が喰っていた揚げたポテト」を詰め、”フレンチフライ”にしたのだとか。


「せやから正式にはベルジアン・フライやねん」


 平川氏がいう「元祖」とはフライドポテトに添えられたマヨネーズのことで、本家ベルギーではケチャップではなく、マヨネーズを添えるのが正解らしい。


「揚げ物にさらにマヨネーズですか?」


 俺は眉をひそめたが、平川氏はそれには答えず残りのマヨネーズを全部塗ったくって最後の1本を口に運んだ。ところが口に運ぶ寸前にたっぷりとすくったマヨネーズが玉になって社会の窓に落ちた。


「アカン!やってもうた!」


 股間から白濁したおソースを垂らし、またしても大げさな声を上げている。

 いちいち芸の細かい平川氏の旅はこの後ローマまで続く。

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