ドーナツ一口で溺れる君に、「馬鹿」と一言くれてやろう。

杜奏みなや

ドーナツ一口で溺れる君に、「馬鹿」と一言くれてやろう。

 ――ねえ一紗かずさ、コンビニ寄ってもいいよね?


 つい五分前、私にそう切り出してきたのは、もちろん涼乃りょうのだった。


 待ち合わせの時間を三十分もオーバーした頃に、私の前へのこのこ姿を現したくせして、涼乃は、こいつは、……このルーズな幼馴染は、本当になんにも悪びれない。


 わざと大きなため息。それだけを吐いて、私はコンビニへ向かった。


 どうせ嫌みを吐いたところで、涼乃はへらっと笑うだけだ。つまるところ、嫌みが一切通じない。五歳のときに涼乃と出会って、それから二十年もつるんでるわけだから、そんなことはわかりきっている。わかりきったことをわざわざ確認するのは性分じゃないし、なにより涼乃相手にそんなことしてちゃ、時間がいくらあっても足りなくなってしまうんだから、やっぱりこの手が一番賢い。


 コンビニに足を踏み入れると、涼乃は「おお、あったかやー」って呟きながら奥の棚のほうに消えていった。多分、あったかいカフェオレでも買うんだろう。どうせ私の家に着いたら、暖房とかガンガンにして、それでお酒飲むのにね。あと十分ぐらい、寒さを辛抱できないものか。


 家にはすでに、お酒もつまみもお菓子も準備している。だから私は買うものなんて別段なくて、涼乃がカフェオレを買ってくるのを適当にウロウロしながら待っていた。……が、これが中々やってこない。もう五分も待っている。カフェオレひとつ買うのにどれだけ時間かけてるんだあいつは、って仕方なしに店の奥へ向かうと、涼乃はすでにカフェオレを手にしていて、そうしてカフェオレのある棚――の向かい側にある、パンの棚を見つめていた。


 まあ、パンの棚に違いはないけど、涼乃が見ているのはパンじゃない。


「また、ドーナツ?」


 涼乃の隣に行ってから、そう、問うた。


 涼乃は嬉しそうにへらっと笑った。


 私は心の中で、舌打ちする。


 別に涼乃に問わなくたって、涼乃がこういう反応をするのはわかりきっていた。わかりきったことをわざわざ確認するのは、自分の性分じゃない。……けど、これだけはやめられない、どうしたって。そんな自分に対する舌打ちだ、今、心の中でやったのは。もちろん涼乃の嬉しそうな顔に対するものでもあるけれど。


 涼乃は二十五歳のくせにだらしない、だぼっとしたスウェット姿で(部活帰りの大学生に見えるかな)、カフェオレを手に、私には相変わらず目もくれず、緩い笑みを浮かべながら話し始めた。いつものように。


「ドーナツってさ。やっぱり“恋を始まらせる形”してるよねえ」

「お酒飲む前から酔ってんの? 頭大丈夫?」

「平気だよー、心配してくれてありがとう一紗」

「あー、うん。やっぱあんたに嫌みは伝わんないね」

「――思い出しちゃうなあ」


 にこにこ笑いながら、涼乃が私の言葉をぶった切った。そうして“ドーナツで恋が始まった”あの話を、口にする。


「ほら、中学のときにね。いたよね、女バスの後輩にモモカって。基本的に人と距離の近い女の子で、それでわたしがドーナツを食べてたら、当たり前みたいに“先輩、一口くーださいっ”なんて言って。それでこう、アルファベットのUの字みたいになってた食べかけのドーナツを、モモカが一口かじって。わたしはちょうどそのとき、」

「Uの右側をかじっている最中で、モモカは左側をかじってきた」

「そうそう。よく覚えてるねえ」

「毎度毎度おんなじ話を聞かされてるんだから、さすがにわかるでしょ。あと、あのとき私もいたから」

「いたねえ」

「ほっぺが触れるぐらいの距離にいるモモカが、自分とおんなじドーナツ食べて笑ってるのにドキドキしてたんでしょ?」

「してたしてた」

「とりあえずさ、あんた、さっさとカフェオレ買えば?」


 今度は私がぶった切って、そのまま一足先にコンビニを出る。そこで涼乃を待つ。


 冷えた夜の空気が一気に肌を舐めてきて、ロングコートのポケットに両手を突っ込みながら、リアルに舌打ちした。


 涼乃は中学のとき、あのドーナツの出来事以降は、しばらくはモモカのことばかり話すようになって、私はそれをうんざりしながら聞いていたのをよく覚えている。あのときの涼乃は本当に、モモカに溺れていた。ドーナツ一口で溺れるって、あいつ、どんだけちょろいんだ――それでモモカへの恋心がなくなってからもう随分経つのに、ドーナツを見るたびにモモカを思い出してにこにこ笑う涼乃のことを、私は心の底から“馬鹿なヤツだな”と思っている。もちろん、涼乃はそれを知らない。


 レジ袋をさげた涼乃がコンビニから出てきたのは、私がコンビニを出て一分後のことだった。


 それからはモモカの話が出てくることもなく、川に架かるいつもの橋を渡って、私たちは私の住むアパートに到着した。部屋の鍵を開けるほんの一瞬の間に、そういえば今日の川は街灯に照らされて、やけにぬらぬら光っていたなあ、なんて。ものすごくどうでもいいことを思い出していた。


 ◇


 飲みなよ、って私に缶カクテルを勧めてきたのは、もちろん涼乃だった。


 私は即座に「いらない」って答えて、缶のウーロン茶を口にする。


「なんでだよう、わたしの勧めたカクテルが飲めないっていうのか一紗はー」


 涼乃はそんなことを言いながら、缶カクテルをぐいっと呷った。……もう酔ってんな、こいつ。完全に。


 カクテルを呷る前には唇を尖らせて拗ねたみたいな顔をしていたのに、今ではもう、へっへっへ……って気持ち悪い顔で笑っている涼乃。そんな涼乃を見ていたら、まあ、酔ってても酔ってなくてもこいつはこんな感じだったなって思い直した。


 本当に、二十五歳のくせに、私と同い年のくせに、もう大人になったくせに、この幼馴染は昔とまったく変わらない。


「一紗ぁ、一口、一口でいいから飲まんねえ」


 こういう、私の“事情”をすぐに忘れるところも昔のまま。


「お酒は飲まないんだって、これまでに何度も何度も言ってきたはずなんだけどね」


 すると涼乃は「そうだったそうだったあ」って、ぱちぱちと手を叩いて笑った。


 どうせまた、すぐに忘れるんだろうけど。私がお酒は飲まない、ってこと。


 ……ふと、思った。


 私がお酒を飲まないその理由も、涼乃は忘れてしまっているのかもしれないって。


 というか、絶対に忘れてる。私がお酒を飲まないってこと、それ自体を秒で忘れてしまうようなヤツなんだから。


 ここまで考えたとき、涼乃が「あれ?」って首を捻った。そして、


「ねえねえ、一紗ってなんでお酒飲まないんだっけ?」

「……あんたって本当に、私の予想をどこまでも裏切らないね」


 もちろん、秒で忘れるようなヤツにはもう教えてなんかやらない。


 二十歳のとき。バイトの飲み会で“せっかく二十歳になったんだから”って勧められてお酒を飲んでみたら、あれよあれよと歯止めがきかなくなってしまって、心の奥底に留めていたことすべてをその場にいたバイト仲間に零してしまったこと。それこそ自分が死ぬまで誰にも言わずに隠しておこうと思っていたことを、馬鹿みたいに零してしまっていたこと。だから私はもうお酒を、飲まないんだって。それが原因であのときのバイトもやめたんだってこと。


 ……いやいや、ここまで懇切丁寧に教えてあげたのにそれを忘れるって、本当にどういうことなんだって思うけど。いくらそういう性格だからって、……ねえ? 怒らずにこいつに付き合ってあげている私って、普通に偉いレベルなんじゃないか。というか、私はお酒飲まないのに、こいつが“私んちで飲みたい”って言うからわざわざ自分では飲まないお酒を私が用意して、こいつの好きなお菓子やつまみだって用意してあげて……いやいや涼乃さ、あんたって本当に、……なに?


 腹が立ったから、とりあえず新しくお菓子を開けた。辛いスナック菓子だ。涼乃は辛いのが苦手で、甘いものしか食べられないから、まあ、これでチャラにしてあげよう。よかったね、涼乃。


 ……が、涼乃は駄々をこね始める。私が、甘いのじゃなくて辛いスナック菓子を開けたことに対して――じゃあ、もちろんない。私が涼乃に、お酒を飲まない理由を教えないことに対してだ。


 あまりにもぶーぶーと文句を言ってくるものだから、面倒だなあって、思った。


 面倒な口には、こうしてやるのがいい。


「よ、っと」

「むぐっ、……ふぐぅ!?」


 辛いスナック菓子をみっつほど、涼乃の口の中にぽーんって放り込んでやる。すると涼乃は反射的にぱくっと口を閉じて、そのままサクサクと咀嚼。……直後、めちゃくちゃ辛がる。


 面白くて、にやにやしながら涼乃を眺める。


 涼乃はヒーヒー言いながら缶カクテルをぐいっと呷ると、こっちにずいっと迫ってきた。コタツの向かい側に座ってたのに、わざわざ抜け出してこっち側にやってくる程度にはぷんぷんしている。


「今のはっ、……さすがに、ダメだぞう……!」

「ぞう。……で、だったらどうすんの?」


 まだにやにやしながら涼乃を見る、私。


 涼乃はむっと唇を尖らせて、ずいずいずいっと私にさらに詰め寄るものの、仕返しの案は残念ながら出てこなかったようで、互いの鼻と鼻がくっついてしまいそうな至近距離、そこまで来ると諦めてすごすごと引き下がった。


 視界いっぱいに涼乃の顔だったのが、ようやく元の、見慣れた自分の部屋になる。


 まだまだにやにやしながら、私はスナック菓子の袋に手を突っ込んで、みっつほどつかむと自分の口の中に放り込んだ。辛いスナック菓子を、涼乃に見せつけるように。……が、


「んんんあんっっっっっまあああああ……っっっ!」


 口の中に広がったのは、辛味じゃなくて甘味だった。それも生半可な甘さじゃなくて、とびきり甘ったるい味で、どうやら辛いスナック菓子が入ってた袋に、いつの間にやら涼乃が甘いやつを仕込んだらしい。


 というか本当、いつの間に仕込んだんだこいつ……!


 顔をくにゃっと歪ませて、視界は涙でくにゃっと歪んでいて、そうして悶絶していたら、涼乃の得意げな声が聞こえてきた。「どうだ、まいったか」なんて、子供じみたことを言いながら私の手に缶を握らせる。文句はこれを飲んだあとで思いっきり言ってやる、って思いながら握らされた缶にひとまず口をつけて、そのまま中身をごくりと飲み込む。……そうしたら、またやられた!


 これ、思いっっっきり甘いヤツ! っていうか、缶カクテルじゃんお酒じゃん!


「あんったねえ、本っ当に、……っ!」


 これ以上は言葉が続かず、飲み込んだものを即リバースできるほどのスキルも持たない私は、ただ口の中に広がるカクテルの甘ったるさと、それからアルコールに触発されて全身を駆け巡り始めた熱に、下唇を噛んで、耐えることしかできない。


 最初こそカラカラと笑っていた涼乃だったけど、そのうちオロオロし始める気配。


 そして、


「ええっと、……一紗……?」


 私はじっと黙っていた。


 カクテルの甘さには本当にうんざりするけれど、幸い、飲み込んだのが一口分だったためだろう――アルコールによる自制心の解除は今のところ、行われる気配がない。


 だからこそ涼乃を少し焦らせてやろうって思いつくぐらいには余裕があって、その思いつきに従い、私はひたすら黙り、気分が悪くなったフリを続ける。


 けれど、だ。肝心なときにこいつは、


「一紗って、お酒を飲んだら気分が悪くなる人。……じゃあ、なかったよね? 確か……」


 なんて。私がお酒を飲まない理由は忘れたくせに、なんていうのか、こういう微妙に細かい部分だけは覚えていて。


 はあー、ってため息を吐いてから、涼乃を睨んでやった。


「どんな記憶力してんの、あんたは」

「ええ? どんなって言われても」


 なぜか頭に手をやって、えへへって涼乃が笑う。一ミリも褒めたつもりはないんだけど。


「……仮にさ、あんた、私がお酒で気分悪くなる体質だったとして、それで私がお酒を拒んでたとかだったら、今の、どう責任とってたわけ?」


 そうしたら涼乃はまだ「えへへ」って笑いながら、


「そんなだったらさすがに覚えてるから、お酒を飲ませようなんてことしないよー」

「改めて言わせてもらうけど、あんた、どんな記憶力してんの?」


 ちょっとピリピリした口調で言ってみたけれど、やっぱり涼乃には通じない。思いついたようにコンビニ袋をごそごそ漁って、それから「一緒に食べよう」って涼乃が取り出したのは、ドーナツ、だった。


 コンビニで、カフェオレと一緒に買っていたらしい。


 予想外のものを目の前に出されて、それを一緒に食べようって言われて、私の口から辛うじて出てきた言葉は、


「今?」


 だった。


 涼乃は頷いて、


「うん、今だよ!」

「……甘いヤツ、好きじゃないし。私」

「これねえ、甘くないヤツだよ! 一紗でも全然食べられるから!」


 そういうの、ありがた迷惑って言うんだよね。……いいや、私がありがたいと思っていない時点で、ただの迷惑ですらある。


 ところが涼乃は、私の心情を察するスキルなんて昔から持ち合わせちゃいないようなヤツだから、自分の行動に“一紗を気遣ってあげたの、偉いでしょう”って言わんばかり。それはもう大得意の笑顔である。


 そんなだから、仕方がない、って引き下がってやるのはもちろん私のほうで、まあこのドーナツにはさすがにアルコールが入ってるわけでもあるまいしって。とにかく、さっさと食べて終わらせることにする。甘くないらしいから、まだマシでもあるだろう。


 手のひらを上に向けて、涼乃に差し出す。


 涼乃は笑顔のまま、ドーナツを袋から出すと、私よりも先にそれへとかじりついた。


 それから涼乃は私の手のひらに、一口かじったドーナツをぽんとのせる。


 Uの字……というよりは、なんだろう、視力検査のときに出てくる、あのアルファベットのCみたいな形になっている。今、私の手のひらにのってるドーナツは。


 そんなどうでもいいことを考えながら、とりあえず私も一口だけかじる。右側のほうを、ほんの少し――と、涼乃だ、涼乃がやけに素早い動きで私の左隣を陣取ったと思ったら、そのまま顔を近づけてきて、こう、――あむり、と。ドーナツの左側にかじりついてきたのだった。


 私はドーナツの右側にかじりついたまま、反射的に目だけを動かす。すると左側にかじりついたままの涼乃と、目が合う。へらっと、涼乃が笑った。


 そうしてドーナツから、私から、涼乃はちょっとだけ離れると、


「さあ、どうだね!」


 うん。


「どうだね、……とは?」

「だからね、一紗っ。――つまり、恋だよ!」

「はあ」

「恋は始まらなかったかね!」

「はあ、……恋ね」


 うんうんと頷いて、私はにっこりと笑う。それから、


「あんたと一緒の思考回路だと思われると、色々とつらいんだけどね私」

「ええっ!?」


 すごくビックリしたみたいな顔をして、すぐにまた涼乃が問うてきた。


「ねえ一紗っ、恋は始まらなかったの!?」

「“こうしたら誰だって恋が始まるはず”みたいなことを本気で思ってるのならさ、あんた、マジで頭大丈夫?」

「それ、本日二度目だよね?」

「あ、一度目を覚えてたんだ」


 珍しいこともあるもんだなって驚いていたら、涼乃がうーんと首を捻った。


「わたしは恋が始まったんだけどなあ、あのとき」

「普通にちょろすぎんでしょ」

「はっ! ねえねえ一紗っ、わたし、わかったかも!」


 ぽんと手を打ったと思ったら、涼乃は私に「ドーナツの右側をかじって」ってリクエストしてきた。仕方なくそのとおりにしてあげると、涼乃がすごく気持ち悪い笑顔を浮かべる。


「なにその顔――」

「ダメだよ一紗、そのままかじっててくれなくちゃ。……じゃあ、今からいくからね!」


 涼乃の気持ち悪い笑顔がピークになったと、そう、私が思った途端、


「せーんぱいっ」


 って、涼乃。


 は? ……って、思って。涼乃を見つめる、私。


 涼乃が続ける、


「一口くーださいっ」


 はむっ。


 さっきとおんなじ、距離になる。


 私はドーナツの右側に、涼乃はドーナツの左側にかじりつき。


 互いの頬と頬が、ほとんどくっついてしまいそうな、そんな距離。


 ただ、さっきと違うのは、涼乃が“あのときのモモカ”を真似たことだ。


 キラキラとした目で私を見る、そんな涼乃へ私はまず、ため息を吐いてみせた。


 それからドーナツを一口かじって、涼乃からちょっとだけ身を離す。


 最後にしれっとした表情をつくり、


「あんたはモモカじゃない。そして私は、あんたじゃない。――いい加減、理解しろ」


 ええー、って唇を尖らせる涼乃。これでもダメなのかあって、そんなことを呟きもする。今しがた私が言ったことなど、まるで理解する気配もない。やっぱりダメだなこいつ、って。そう思いつつ、私は、ふと涼乃に尋ねる。尋ねてみたくなった。


 ――それじゃあさ、涼乃、


「あんたはさ。もしも今この場に、モモカがいたとして。あのときみたいに、……中学のときみたいに、モモカが涼乃のドーナツの左側をかじってきたら。そうしたら、あんたはさ、なに、またモモカのこと、好きになるっていうの? ――つまりまた、あんたの中で恋が始まるの?」


 涼乃の答えを、私はあえて予想しなかった。


 ただ、目の前にいる涼乃の表情、仕草、そして言葉にだけ集中しようって。


 涼乃は、そんな私の目の前で、最初、ぱちぱちとまばたきしていた。


 それから次に涼乃は、思案するみたいに視線を上にやって、……そのうち、“えへへ、ええー、ふへへえ”って。笑いながら、体をくねくねさせ始める。


 それが、涼乃の答えだった。


 気がつけば私の下に、仰向けの涼乃がいた。


 私は涼乃に覆いかぶさっていて、つまり、自分でも気づかない間に涼乃のことを、他でもない私が押し倒していたみたいだった。


 涼乃がまた、ぱちぱちとまばたきを繰り返す。私はただ、涼乃をじっと見下ろしている。


 視線がしばらく重なっていて、だけど、やがて涼乃は、キラキラと目を輝かせるのだった。「ねえ一紗、やっぱりドーナツで恋が始まったんだね?」って。


 私は問う、


「始まってたら、あんた、どうすんの?」

「え、それはわからないけど……?」


 だって始まったあとのことは考えてなかったんだもん、って。涼乃が付け加える。


 へらっと笑って、涼乃は、こいつは、


「……あんたは、本当になんにも悪びれないね」


 言葉を落として、私は涼乃の、唇に噛みついた。


 涼乃の熱い息が、私の口の中に流れ込んできて、なにを考えることもできず、ただひたすら熱い息を、感じて、感じてはまた、唇に噛みつく。


 どれぐらいの間、そうしていたかはわからないけれど。


 ふ、と笑う声が、熱い息と共に、私の口の中に流れ込んできた。


 顔を離したら、涼乃は私の下で、実に嬉しそうに笑っていた。


 そうして私を見上げて、言う。


「やっぱりドーナツでね、恋は始まるんだよ! わたしの言ったとおり!」


 私の体の中を駆けまわっていた熱は、今、この瞬間に、間違いなく、死んだ。


 熱の死んだ体は、とても重たい。


 重たいけれど無理やりに動かして、ぽかり、と。


 涼乃の頭を、叩いた。


「始まるか、馬鹿」


 私が叩いた部分を押さえながら「ええー」って不満たっぷりの声を零す涼乃だったが、次にはもう、きょとんと首を傾げて私へと問うてくる。


「一紗、どこ行くの?」

「もっかいコンビニ行ってくる」


 立ち上がって、コートを羽織りながら、


「――あんたの口さ、甘すぎて無理。コンビニでブラックコーヒー買ってくるわ」


 ◇


 予想はしなくても、期待していた答えはあった。だから期待どおりの答えを得られず、今、後悔しているのはもちろん私だった。


 コンビニへ行く道すがら、川に架かるいつもの橋に差しかかった。


 引き寄せられるように橋の欄干へ両手を置くと、たっぷりと息を吐く。白い息が、ほうっと広がって夜の闇にとけていき、そうすると今度、視界に映り込んできたのは街灯に照らされて、眼下でぬらぬらと白く光っている川だった。……ああ、なんだかこの川、今の私の心の中そのものみたいだなって。そんなふうに思えてくる。


 後悔。……そして、ほんの少しの、ぬらぬらと揺らめく怒り。


 そうしたら、途端に納得する。


 一時間前、アパートの部屋の鍵を開けるほんの一瞬の間に、私はなぜだかこのぬらぬらと光る川のことを思い出していたのだけれど。そうか、あのときの私の心の中もこんな感じだったから。後悔と、ぬらぬらと揺らめく怒りが、渦巻いていたから。だからやけに印象に残っていて、あのとき、思い出していたのかもしれない。


 びゅう、と冷たい風が吹きつけてきた。私のことを、まるで嗤うみたいに、――なんてタイミングのいい風だろう。


 そう思ったら、なんだか自分でもちょっと可笑しくなってきて、小さく笑ってみる。と、


「かーずさあーっ」


 って。間延びした、能天気な、……そんな声が、私の名前を呼んできた。


 一瞬、心臓が跳ねた。けれどすぐに笑顔をつくって、声がしたほうを向く。


 そうして、こっちに向かって足取り軽く駆けてくる涼乃を見る。


 どうせ涼乃は、私の心の中を察するスキルなんて、持ち合わせちゃいないんだから。


 だから適当につくった笑顔で、


「なに? ……ああ、あったかいカフェオレを買ってきてほしいって?」


 涼乃のことだから、まあそんなところだろう。


 けれど涼乃は予想に反して、んーん、って首を横に振るのだった。それも、マジメな顔で。


 私の心臓が、また跳ねた。さっきよりも、ずっと大きく。


 どうして? ――それは涼乃が、普段はあまりこういう顔を見せないからだ。


 いつもなにかしらその顔に、喜怒哀楽の感情をのせているんだから、……だから私がビビったって、それは仕方のないことで。


 もしかしたら涼乃は、私の心の内を見透かしてしまったんじゃないか? ――そんな考えが一瞬、私の脳裏をよぎったって、それは仕方のないことなのだ。


 涼乃はそうしてちょっとの間、マジメな顔でいたけれど、やがてへにゃっとした、いつもの柔らかな、柔らかすぎる笑みを浮かべると、私のほうへゆっくりと歩み寄ってきた。そしてとうとう私の真正面にやってくると、にこーって、ますます笑みを深める。なーんにも考えていないような、それは本当にいつもの笑顔で、……やっぱり杞憂だったか、って。内心、安堵する私。


 いや、まあそりゃそうだよね。何度だって言うけれど、涼乃は私の心情を察するスキルなんてものは、昔から持ち合わせちゃいないようなヤツなのだ。私が“眠たいなあ”とか“むかつくなあ”とか、そういうこと思ってももちろん察してなんてくれないし、あと、私の外見の変化にだって気づかない。たとえば私が前髪を切ってもいっこうに指摘なんてしてこないし、寝不足で目の下にクマができたって、やっぱりなんにも気づかない。そういうヤツなんだ、涼乃は。


 ――だけど。


 私の頭の中に、出し抜けに、私自身の声が響いた。


 ――だけどモモカのときは、違ったじゃないか。


 モモカが眠たそうにしていたら、涼乃はすぐに気づいて、「昨日は遅くまで起きてたの?」なんて聞いたりしていた。モモカが機嫌悪そうにしていたら、必死になって笑わせようとしていた。モモカが前髪切ったら、それがたとえ数ミリだったとしても、目敏く「切ったんだねえ」なんて言って楽しそうに前髪触りに行ってたし。あとそうだ、爪、爪だってさ、モモカが切った翌日にはちゃんと気づいていたりして。


 幼馴染の私のことには、なんにも気づかないのに。


 どうして。


 どうして、……ドーナツたった一口で、モモカには溺れてしまうくせに。


 私のキスには溺れなくて、流されてくれなくて、――平気な顔で泳ぎ続けるの?


 私にだけは、どうして、どうしたって溺れてくれないの? 気づいてくれないの?


 涼乃がモモカに恋した瞬間の顔。私は今でも覚えているよ。


 あの顔をさ。私にも。私にだって、ねえ、一度ぐらい向けてくれたって、


「おいしょー」


 って。涼乃が突然、間の抜けた声を出した。かと思ったらこっちに手を伸ばしてくる。


 一体なにするつもりなんだこいつは、って思っていたら、私よりも少しだけ背の低いそいつは、少しだけ背伸びをして、それから私の頭を撫でてきた。くしゃくしゃくしゃーって。


 わけがわからなくて、その手を振り払おうとしたら。


 涼乃が言うんだ。


「ねえ、一紗。気づいてる?」


 さっきも見せた、あの顔で、マジメな顔で、


「一紗ねえ、今、泣いてるんだよ」


 自分の頬に、手を当てた。そしたら涼乃の言うとおり、手のひらが、濡れた。


 言い訳を探そうとするけれど。


 それどころじゃ、なくなってしまった。


 今、私は涼乃の腕の中にいた。そうして涼乃が降らせてくる言葉を、浴びることしかできなくて、


「ごめんね一紗、本当にごめんね――いっぱい無理させちゃったよね、いっぱい悩ませちゃったよね――それで一紗は二十歳のときに、とうとう失敗しちゃったんだもんね――バイトの飲み会で勧められたお酒に歯止めがきかなくなっちゃってさ、それで喋っちゃったんでしょ、一紗が死ぬまで誰にも言わずに隠しておこうと思ってたこと――つまり一紗が、わたしのことを好きなんだってこと――わかるよ、一紗の秘密って言ったらそれぐらいしかないんだもん――だから一紗はバイトをやめちゃって――女の子が女の子に恋してるっていうのを知られたからやめたんじゃなくって、“涼乃”に恋をしていることを誰かに喋った自分自身が恥ずかしくてやめちゃったんだもんね――本当にね、あのバイトやめちゃったのなんてわたしのせいみたいなものだから、すっごくすっごく謝りたかったんだよわたし、だけどね――」


「待て待て待て待て、とりあえず、待て!」


 私を抱きしめるそいつの両肩に手をやって、そのままそいつを遠ざける。


 さっきまで私の頬を伝っていた涙は、多分、今はもう流れていない。


 とにかく私は、こいつに聞かなくちゃならない。


「……あんたは、誰?」


 目の前のそいつはきょとんとして、それからマジメな顔で答えた。


「正真正銘、一紗が恋をしている涼乃だよ」

「こ、い――」

「一紗は自分の感情を、自分では隠せているつもりだったんだろうけど。でもわたしはね、全部わかってたよ。それこそ一紗はわたしのこと、“わかりやすいヤツだ”って思っていて、だから“涼乃のことならなんでもわかる”みたいに思ってたんだと思うけど。それは逆で、実際はわたしのほうが一紗のことをわかってたんだ。一紗がわたしのことを“馬鹿だなあ”って思ってたことも、もちろん」

「う――」

「嘘じゃないんだよ、これが。――だけどそれでもね、一紗がわたしに恋をしているってこと、それだけはいつまでも確信が持てなくて。どうしようかなあって思ってたところへ、さっきの、ほら、二十歳お酒事件! あれでようやく“一紗は本当にわたしのことが好きだったんだ”って確信したんだなあ。そこでネタばらしをするのでもよかったんだけど、でも、せっかくだからもうちょっとこのまま一紗の様子を見たいなーって思い始めてしまいまして」

「ちょいちょいちょい」

「そしたらようやく、今日、一紗がパーンって。爆発してくれたよね。ちゅーとか」

「ちゅ――」

「わたしは大満足だったし、それ以上にだいぶやりすぎ感が否めなかったので、……それで今日こそはネタばらしをしようって、こうして追いかけてきたら、一紗は案の定ここで泣いていたと」


 ちょっとの間、私たちは無言で見つめ合った。


 そうして見つめ合っても、今となってはもう、目の前にいるこいつの心情を予想することはできなかった。少なくとも、私には。


 けれどこいつは、そんな私の心情すらもお見通しなのかもしれない。


 だとしたら、今更嘘なんて吐いたところで、無駄でしかないんだから。


 ……言ってやった。


「私さ、もうなにを信じればいいのかわっかんないわ」

「うん、……そうだよね?」

「なんなら今の話も全部嘘に思えるし、あんたの存在自体も嘘じゃないかって疑うレベル」

「まあ、ずっと嘘吐いてたからねわたし。もちろん理由はあるんだけど、うーん、どうしたら信じてくれるだろ? 自業自得なんだけどねえ、うーん、……はっ! それじゃあ、これでどうだろう!?」


 さも名案を思いついたような顔で言うから、なにをするのかと思えば、涼乃は突然、橋の欄干に両手を置いた。かと思えば、ほっ、と身を乗り出そうと奮闘する。


「ちょっ、あんたなにしてんの!?」

「心配してくれてありがとう、でも大丈夫だよー、つまりこれはわたしの意思表明なんだから。――これ以降は一紗に嘘吐かない、っていうね。これを破ったらわたしは即、ここから川へ落ちる所存であります」

「無茶苦茶な――」

「あのね」


 私の言葉をぶった切って、涼乃が言う。まっすぐな声で。


 ――わたし、ずっと一紗のこと好きだったんだ。


「それこそ一紗がわたしのことを好きになるよりも、もっとずっと前から。一紗に、恋に落ちてた。だけどさ、そんなこと言っちゃったら、まあ色々と終わっちゃうんだろうなっていうのが子供心にわかってたから、だから言えなかったんだ。言うとしたら、一紗がわたしのことを好きになってから」


 それからはわたし、色々と考えてたんだよ――涼乃が懐かしそうに目を細めて笑う。


「一紗の気を引くには、どうしたらいいのか。……それを考えてた時期にね、ちょうど、中学生のとき。モモカのドーナツのことだよ、あれがあったでしょ? 試しにこう、ドキドキしたみたいな顔をして、それでモモカに恋したんだーって。一紗に言ってみたら、それが当たりだったみたいで、それ以降、一紗はわたしのことを意識してくれるようになったよね」


 でも、って。涼乃。


「それでもさっきも言ったとおり、意識はしてくれてるだろうなーとは思っても、どうしても“好き”になってくれているかどうかの確信はまだ持てなかった。だから確信が持てるまではまだこの気持ちは伝えられない、って。……それで待って、待ちに待って、あの二十歳お酒事件がやってきたわけですよ!」

「……で? 確信はしたのに、あんたは、」

「うむ。……人間の欲って深くてね、一紗の様子をもうちょっと見たいなあと、そう思ってしまいまして……へへへ……ごめんなさい」

「絶対に許さない」

「だよねえ、うん。……そうだよねえ」


 欄干から身を乗り出すのを、涼乃がやめた。


 すとん、と地に足をつけると、「でもね」って。柔らかく笑いながら、


「嘘吐いちゃったこととか、悩ませちゃったこととか、本当に悪いなって思ってる。……だけど一紗はさ、これでもう、あがってこられないでしょ? ドーナツ一口でさ、わたしに溺れちゃって、それでもうそのままなんだ。これから先も、ずうっと」


 あっ、と思った。


 悪びれない笑顔の涼乃が、私の前に立っていて。


 そして涼乃は「ドーナツで思い出したよ」って言うと、ごそごそとなにかを取り出す。


 それはさっき、部屋で二人かじりあった食べかけドーナツで、涼乃はそれを綺麗に半分にちぎると、私に一方を差し出す。


 私がそれを受け取らずにいたら、涼乃はもう一方を先に食べてしまった。


 そして言うのだ、


「このドーナツをね、もしよかったら食べてくれないかな。わたしは片方を食べたから、もう片方を一紗が食べてくれたら、わたしたちは本当に、晴れて両想いであるとみなします。……ただし食べたらもちろん、一紗はわたしに“溺れているんだ”って認めることになる」

「私の負け、ってことね。……で、私がこれを食べなかったら、」

「一紗ふうに言えば、わたしの負けってことになるかな。わたしは一紗のことを潔く諦めるよ」


 へえ、と思う。


 今まで散々、涼乃に嘘を吐かれていた私だ。


 そのうえこのドーナツを食べて、負けを認めるっていうのは、癪なことこのうえない。


 ドーナツを、受け取った。


 そうして涼乃の隣に並ぶと、ドーナツを持った手を、伸ばした。


 手は欄干をこえて、今、ここで私が手を開いたなら。ドーナツはぬらぬらと光る川の中へと落ちて、その瞬間に“私の勝ち”が確定する。


 涼乃の表情は、それでもまだ変わらなかった。まるで“ドーナツを落とすなんてこと、一紗にはできっこないよ”って、そんな表情のように、私には見えた。


 ――絶対にやってやる。


 ぐっと腕に力を込めて、思いっきり、ドーナツをぶん投げてやる姿勢をとる。


「……だってずっと私のこと、あんたはさ、馬鹿だって思ってたわけだもんね」


 涼乃のことならなんだってわかるんだ、って。そんなふうに思っていたのに、実際はなんにもわかっていなくて。涼乃のほうが私のこと、なんだってお見通しで。涼乃はそんな私を、馬鹿だと思いながら見ていた。そうに決まっている。


 涼乃は、けれど首を横に振った。


「馬鹿だとは思っていないよ。――いないけど、でも仮に馬鹿だったとして、わたしはそれでもいいんじゃないかなって思うけどなあ。だってね、一紗。わたしが言うのもなんだけど――嘘を吐くのが上手い人よりも、嘘を隠しきれない、上手くやれない、そのうえ人をすぐに信じてしまう、そういう人のほうが何倍も人として素敵だよ。実際にわたしは、一紗のそういうところが愛おしかったんだからね。昔から」


 ……ダメだった。もう、ダメだった。


 私の口の中に、ドーナツの味が広がっていったのは、その直後のこと。


 甘くないドーナツだとはいえ、それでもほんのりとした甘みは、やっぱり存在して。


 その甘い味はつまり、私が涼乃に“溺れてしまっている”のだと、そう認めた、いわゆる“負け”の味だった。


 悔しかった。もちろん、悔しい。


 だけどそれ以上に、私は、そう、……悔しいけれど、嬉しくて。


「本っ当にさ、……馬鹿だわ」


 この言葉は、他ならぬ私自身に、くれてやることにした。

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ドーナツ一口で溺れる君に、「馬鹿」と一言くれてやろう。 杜奏みなや @Minaya_Morikana

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