エピローグ
「–––え?」
助手席で彼女が言った言葉に、私は思わず声を上げていた。
「……ええと……すまない、良く聞こえなかったんだが……」
嘘だ。だが理解が追いつかない。
私はおもむろにブレーキを踏み、車を道の端に寄せた。これ以上ダメージを与えては限界を超えてしまうであろう中古車だ。慎重に舗装されていない地面を進み、道路から安全な距離を取ってギアを切り替え、サイドブレーキを引く。ハザードのスイッチを押した。
荒野と放牧地を突っ切るこの国道は、あまり交通量は多くない。乗用車はまばらで、さっき追い越したばかりの大型の運送トラックが追いつき、砂埃を上げて走り去って行く。
風を切る音の無くなった車内は静かで、エンジン音とハザードの点滅音だけが響く。混乱で、運転を続けられる自信が無かった。私は深く息を吸って、背もたれに身を預けた。ゆっくりと息を吐く。
さっき、彼女はなんと言った?
いや、言った言葉は思い出せる。だがそれの意味するところは–––
「……やっぱりご存知なかったんですね……」
助手席で呟かれた言葉に、私は顔を向けた。クリスティーナは、何故だか泣きそうな表情をしていた。
ハニーの姿で私を追いかけてきた彼女と合流し、一度ホテルに戻った。介抱の後、彼女の実家にも戻り、クリスティーナの姿になってもらって二人のこれからを話した。そして数日経った今は、彼女が私の移動先にある大学に編入する準備を終えて、一緒に州を横断している最中だった。
生垣を挟んだ再開の後、私達の間にはどこか気まずい雰囲気が拭いきれない。しかし共に在れる喜びはそれを遥かに上回るものであったし、人間の姿同士で微笑みを交わすのはくすぐったくもあった。数日の間に、ぎこちなさは薄まってきている実感もあった。
私達は、ドライブスルーで買ったハンバーガーとコーヒーを肴に、他愛の無い会話をしながらドライブを楽しんでいた。
そんな時、不意にクリスティーナが言ったのだ。
『吸血鬼の唾液は、血族の治癒力を高める効果があること、ご存知ですか』、と。
まさか。
そんな話は聞いたことが……
だが同時に、ほんの数日前に、近々『講習』を受ける必要があると、フェンに言われた事を思い出した。
「最初に血をお飲み頂いた後にもお伝えしたましたが……あの時は二度と飲まないから必要ないと突っぱねられましたからねぇ。このお年で受けられるのは、坊ちゃんぐらいのものですよ。全く。」
お決まりの呆れた調子で言われた私は、ぐうの音も出ずにむくれていた。
だから吸血鬼と血族の特性と関係に関して、私が知らない事があるのは確かで……
「ドクター。」
クリスティーナが私を呼ぶ呼称は、以前のままだ。急に変えろと言っても難しいのかもしれない。いつのまにかシートベルトを外していた彼女は身を乗り出して、俯いた私の顔を覗き込んできた。不安からか、口元を抑えていた私の手を取り、優しく握った。そうしてもらう方が落ち着くのは何故だろう。
「……その、差し出がましいとは思ったんです。でもドクター、私に教えてくれたお話の印象だと、知らないんじゃないかと思って……」
その通りだ。
「私は診てくれたお医者様に聞いて……だから、ドクター、」
片方の頬に暖かな感触を覚えて、そっと顔を起こされる。優しく微笑むクリスティーナと目が合った。私を見つめるのは、私の全てを認めてくれるような、慈愛に満ちた紅茶色の瞳。そこには初めて出会った時のような怯えや悲しみはかけらも無く、代わりに眩しいほどの生命力が溢れている。
「私の命を救ってくれて、有難うございました。こうやって、生きて貴方の側に居られるのは、あの時ドクターが助けてくれたからですよ。」
ふわりと、暖かい体温が私を包む。私の肩に腕を回し顎を乗せた彼女の背に、呆然と手を伸ばした。
あの時。クリスティーナが理性を失った父親に、致命傷を負わされた時。……彼女が助かったのは、人狼の治癒力だけの所為では無い……?
ふと、何度も私を苛んだ記憶が蘇る。
血の海に横たわる母。
それを抱き上げる父。
そして、母の血を啜る父の姿が、あの時の自分に重なる。
だが記憶の中の父は、ゆっくりと顔を上げた。
私の視線と絡むのは、金色に輝く、彼の双眸。
私は、はっと息を飲んだ。
その輝きが、色の無い雫となって零れ落ちたのを、思い出したから。
途端に、大きな悲しみと後悔の波が私を襲った。生温い液体が、私の頬を伝ってクリスティーナの肩に落ちる。それはぼたぼたと止めども無く流れて、クリスティーナのシャツにシミを作る。気にする様子の無い彼女は私を抱きしめ直して、きつく腕に力を込めた。伝わってくる彼女の体温が心地良い。
これは、父の悲しみだ。
母を守れなかった、父の。
父の行動の意味を正しく理解して初めて、私は彼の悲しみを理解していた。しゃくりあげるのも構わず、クリスティーナに縋る。
「私はここに居ます。ずっと、側に居ますよ。」
少し唐突に思えてしまった彼女の言葉は、どうしてか胸に染みて悲しみを癒す。じんわりと、胸の中から暖かさが沁みた。
「ああ、そうしてくれ。」
鼻をすすりながら、情けない声で私は答えた。彼女をしっかりと抱きしめたまま。
「私も約束する。二度と君を離さない。」
ハニーには告げた言葉を、もう一度伝える。
彼女がくれた幸せを、どうか返せるようにと願いながら。
The end.
ドクターと蜜色の忠犬 瀬道 一加 @IchikaSedou
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