最終話–––その2

 乗り古したセダンでハイウェイを走る。ここ一年で見慣れた風景がどんどん通り過ぎて行く。


 この道は、彼女を連れて何度も走った道だ。恐らくそこまで頻繁には必要は無かった、月に一度の検診の後に、二人で家に向かって走った道。


 後もう少しで、いつも使ったハイウェイの出口だ。しかし私は速度を変えない。車線も変えない。


 あの家に、私は二度と帰ることは無いのだ。



 新しいソファーの搬入後、私は逃げるようにしてすぐ家を出た。大家はどうしても都合がつかず、立会は無し。言われた通り、鍵は植え込みの陰で軽く土をかけて隠した。恐らく数日以内に、難癖を付けていくらかの修繕費を請求してくることだろう。それでいい。金などいくらでも払ってやる。私は一刻も早くここを出たかった。


 彼女の居ないこの場所は、孤独を痛いほど自覚させるばかりか、良心の呵責に苛まれるばかりなのだ。


 私は建物の外観をなるべく見ないようにして車に乗り込む。少し乱雑にハンドルを切って、その場を後にした。



 世話になっていた礼を言うために獣医を訪れたというのは、結局のところは言い訳でしか無いのだろう。私は恐らく、彼女の気配のする場所をもう一度訪れたかったのだ。少しでも彼女の面影を探して、二人で通った場所を彷徨ったに過ぎない。


 その結果、私は感傷に浸るどころではなく、彼女を失った痛手を再認識する羽目になった。


 いつもの出口を通り過ぎる。この先は見慣れない景色で–––いや、違う。少し行けば、彼女を連れて入れるペット用品店のある地域だ。ああそうだ、ハイキングに行くために、何度か彼女を連れてもっと遠出をした事もある。美しい自然の中、湖面を踏み叩いてはしゃぐ彼女の笑顔は、湖面の揺らぎにも増してキラキラと輝いていて–––



 ……あの場所は、クリスティーナを連れて行っても喜ぶだろうか。



「……っ!」



 私は、苛立ちに任せてハンドルを切った。ザザザァッ、と音を立てて、私の車は車線をはみ出す。舗装されていない地面の上で車はガタガタと弾み、やがて止まる。




 すぐ横を、車が風を切って通り過ぎて行く。ブレーキは目一杯踏み込んだまま。草原に続くハイウェイの路肩で、私はハザードも点けずに俯いていた。




 –––どうしようもないはずなんだ。こうするしかない。他にやりようは無いんだ。こうするのが最善で–––



 –––最善?


 頭の中に浮かぶ弁明の前に、クリスティーナの涙が映る。


 –––誰の為の?




「……すまない、ティナ……」


 ハンドルに頭を預けて、誰にともなく呟いても、私の身体を満たしているのは振り切ることの出来ない罪悪感だった。


 そして、絶える事無く湧いてくるのは、胸を刺すような悲しみ。




 ハニーは私の心の拠り所だった。



 私に温もりを思い出させてくれた。

 私に帰る場所をくれた。

 私に誰かを守る喜びを教えてくれた。



 だが、ハニーはクリスティーナだった。



 私は、大切に思っていた筈の彼女の境遇に気付くことが出来なかった。


 母親を亡くしたばかりの悲しみも、突然姿が変わってしまった混乱も、慰める事が出来なかった。


 それどころか、人として尊重すべき筈の彼女をペットとして扱い、私の都合で閉じ込めた。一年も、だ。


 そして彼女は母親だけで無く、父親まで失った。



 私のせいで。


 私の弱さのせいで。


 私が、己の宿命と向き合わなかったばかりに。




 一番大切だった筈の存在を、私は傷付けた。取り返しのつかない程に。




 それなのに–––


 それでも彼女は、私を慕ってくれた。



(ドクターの事を知れるのが嬉しくて……沢山聞いちゃったんです。)


(ずっと、一緒にいたんですもの。ドクターがどんな姿になっても、私の鼻は誤魔化せませんよ?)


(話すなら、ドクターが最初って決めてましたから。)


(……これからも私、ドクターの側に居られるって事ですよね……?)


(わたしは自分から、ドクターと居たくて……)


(……私が側にいるのは、迷惑なんですか?)



 クリスティーナであっても、彼女が私に向ける信頼はハニーの時と変わらないようだった。


 その事に、私の胸は締め付けられる。


 私の中では、それを嬉しいと思う気持ちと、その好意を受け止めるべきではないという理性が葛藤していた。




 自分がハニーだけでなくクリスティーナに対しても特別な感情を抱いている事は、今となっては誤魔化しようの無い事実だった。


 ただ愛犬と同一人物だったという理由だけではなく、私は彼女に対して好意を感じている。それこそ、全ての願いを叶えてあげたいと思う程には。彼女に対する罪悪感も相まって、それは何よりも最優先される事になる筈だった。


 だが私は吸血鬼だった。


 そして彼女は『血族』だ。


 今は落ち着いていても、またいつ彼女の血を欲してしまうか分からない。定期的に一族から支給される血液を摂取していたとしても、もしまた彼女が私の前で怪我をしたとしたら?私は、果たして理性を保てるか?


「……っ!」


 その可能性を考えて、私は身震いした。




 数日前の山の中の小屋で、彼女の血を見た瞬間から静寂が訪れるまでの数分間、私に自我はほとんど無かった。彼女の血に引きずり起こされた吸血鬼の本能だけが私の身体を動かし、気がつけば狼男の亡骸が足元に転がっていた。理性の無い私の側でダニーが巻き添えを喰らわず生き延びた事は、奇跡に近いとすら思っている。


 それほど私の中のは凶暴であり、彼女からの吸血は強烈な体験だった。


 あの時彼女が怪我をしたのは、間接的に責任があるとはいえ、私の所為では無かった。しかし、もし何かの理由でまた私が理性を失ってしまったとしたら–––



 あの味を求めて、私は彼女の肉を自ら割いてしまうのではないか。



 あのとき吸血鬼の本能に負けた私には、そうならないと言い切れる自信はこれっぽっちも無かったのだ。




 ハニーでありクリスティーナである彼女を誰より大切に思っている。自分がしたことへの罪悪感はあっても、それが彼女の願いであれば彼女の側に居てやりたい。しかし彼女を傷付けてしまう可能性のある者を–––それが例え自分であっても–––彼女の側に置くわけにはいかない。


 だからこれが最善だ–––。


 そう何度も自分に言い聞かせる。


 それでも私の頭から、彼女の涙は消えてくれなかった。




 そうすれば振り切ることが出来るかのように、私は大きくため息を吐いた。


 その時だ。


 突然馴染み深い気配が近くに渦巻いたかと思えば、フロントガラスが乱暴に叩かれる。


「坊ちゃん!!」


 驚いて見れば、フロントガラスにへばりついているのは、らしくなく慌てた様子のフェンであった。素早くシートベルトを外して外に出る。


「どうした?」

「坊ちゃん、クリスティーナ嬢が……」


 その名を聞くだけで、私が次の行動を決めるには十分だった。私は霧に姿を変えて、すぐさまその場を後にした。


 ◇◇◇



 街全体に、意識を張り巡らせる。何よりも私の中で重要度の高い存在の所在地はすぐに知れた。


 高速で移動するその気配を捉えて、それが向かう先に身体を再構成する。ちょうど私が元の姿を取り戻した瞬間に、私の脇を黄色い影がすり抜けていった。


「ハニー!!」


 その姿を、私が見誤る訳がなかった。人狼の血なのか、二度と見ることは無いと思っていたしなやかな獣のスピードは普通の犬ではありえないほどである。私の言葉に気付いて止まった彼女は、既に私の視界の限界にいた。


 そこは彼女を滞在させていたホテルからは随分離れている。私達が住んでいた家に向かう方角の、丁度中間地点にある海沿いの工業地帯。その長く真っ直ぐな通りの先から、彼女が駆け戻ってくる。私も彼女の方へ走り出す。


 ハニーは垂れた耳を靡かせながら躍動感いっぱいに弾むように走り寄り–––



 そして止まらなかった。



「ふぐっ!?」


 彼女を受け止めようとして腹部に強烈な衝撃を感じ、私はそのまま後ろに倒れた。


 痛みというより驚きから私が自分を取り戻す間も無く、顔面いっぱいに冷たいものとぬるいものが何度も忙しなく降り注ぐ。


「な、ちょ、こら」


 ハニーが、私の周りを跳ね回りながら、私の顔をめちゃくちゃに舐めていた。不意の攻撃に戸惑い腕で顔面をガードするも、その間を縫って舌は届く。こんなに無遠慮な愛情表現は、未だかつて彼女から受けたことがなかった。


「ハニーっ……こらっ……やめなさい!」


 それを振り払うようにして、私はやっとのことで上半身を起こす。しかし、彼女は私の制止を聞いたわけでは無いようだった。


 見れば彼女は明後日の方向を見ており、それからキョロキョロと辺りを見渡し始めた。それから、何を思ったのか突然また走り出した。


「ハニー!?」


 ワンテンポ遅れて彼女を追いかけた私の前で、彼女がすぐ側にあった駐車場の周りを囲う生垣に飛び込んだ。私の腰ほどの高さのあるそれの反対側で、彼女は止まる。私が彼女の不可思議な行動を見守っていると……


「う……」


 と唸り声が聞こえて、



 私は凍り付いた。




 だって。だってだって。


 生垣の隙間から見える白い肩は、どう見てもハニーでは無くて。


「なんっ!?は、はくっ、く、くくくくくりすティーナ!!??」


 なんってことをしているんだっ!!???


 と、叫ぶこともできず、私は瞬時に生垣に背を向けてしゃがみこみ、それから立ち上がって絶対に目線を下げないようにして必死に辺りを見回した。取り敢えず近くには人は居ない。


 盛大に挙動不審である。弁明はしない。こんなに狼狽えることは生まれて初めてで、鬼生終わり無しといえどこの先も決して無いだろう。


 私と違って、彼女は着衣のまま身体を変化させる事は出来ない筈である。つまり、生垣の反対側の彼女は生まれたままの姿なわけであって……


 こんな所で人型になるなんて、一体何を考えているんだ君は!?


 と、私が叫ぶより早く、クリスティーナが叫んだ。




「ドクターのバカ!!」





 バカ。




 馬鹿、とは。



 ばか、とは何のことだったかと、撃ち抜かれたような衝撃を食らって現実逃避を始めた頭で考える。



「ばかっ、ばかっ、バカっ!!」



 全力で叫び続けるクリスティーナを生垣越しに前にして、ひとことひとことが与えるダメージに面食らいながら、私は唖然と立ち尽くしていた。


「あたしを置いていくなんて、絶対にダメ!!許さない!!」

「ティ、ティナ……!?」

「……ばか……酷いわよ……言ってくれないなんて……どうして……」


 彼女は怒っている。それは確かなようだ。いや、昨日の今日でそれは当たり前なのだが。


 今彼女が言っているのは、私が引っ越す事に関してだろうか。そう言えば彼女には言っていなかった。霧になれば長距離移動は簡単なので、荷物さえなければ秒で彼女の元に来れるのだが。生垣の反対側から、乱れた呼吸としゃっくりが聞こえる。


 ああ、ダメだ。彼女が泣いている。


 すぐに肩を抱いてやりたいのに、何も身につけていない彼女に触れるのは憚られる。ああ、しかし、もしかして地べたに座っているのか?ダメだダメだ。私は上着を着ていないし、何か代わりに覆えるものは……とにかく、何処か別の場所に……


 私がただ狼狽えていると、彼女がすっくと立ち上がった。


 つられて立ち上がりかけて、慌ててクリスティーナに背を向けた。あ、危ない……。いや初めて目にしたわけでは無いけれどそんな勝手にいや勝手に見せてるの彼女なのだけどだけど–––


 と、思っていたら、ぐい、と肩を引かれ、胸ぐらを掴まれた。目の前にクリスティーナの顔がある。悲しみより、怒りを露わにして。


「どうして黙って行っちゃうんですか!?マジ信じられない!!」

「ティ、ティナ……」

「酷くないですか!?何なの!?そんなに私が嫌なの!?」

「ち、違う!!」


 それだけは反論しなければと、私は声を上げた。君を嫌いな訳がない。むしろ逆だからこそ私は……


 私がどれだけ彼女を思っているかを言いかけて、状況を思い出す。ここで延々と自分の思いを語るわけにいかない。この姿を誰かの目に晒すなどとんでもないのだ。口ごもった私に、クリスティーナは俯いてしまった。


「……ドクターが、私の血を飲みたく無いっていうのは分かりました。」


 いや飲みたいけどいやそう確かにそうっちゃそうなんだけどうんっていうかとにかく移動しようか今はうんちゃんと話しを聞くからとにかく–––


 慌てる私が主導権を握れるはずもなく、私が何か口にする前に、クリスティーナはまた顔を上げる。きっ、と私を睨むその剣幕に、思考でさえ口を噤む。


「だけどそんなの知りません。」


 私を映す潤んだ双眸は、決意に満ちていた。



「私が怖いとかどうとか、そんなの知りません!私を拾ったのは……


 こんなに好きにさせたのは貴方なんだから、ちゃんと責任取ってください!!」




 むにゅ、と、唇に弾力のある温かなものが押し付けられた。




 驚愕に見開かれた私の眼前から、クリスティーナの身体が崩れ落ちる。反射的にそれを受けめようとして手を伸ばし、一緒に腰を下ろして–––


 結局のところアスファルトにへたり込んでしまった私の胡座の上にのいたのは、蜂蜜色の愛犬だった。


 力無く横たわっている、ゴールデン・レトリーバーに酷似したその姿を見て、私はまず安堵した。よかった、これで一糸纏わぬ人型の姿を誰かに見られる心配は無い。




 一気に襲ってきた虚脱感に任せて、私は地面に倒れこんだ。そしてもっと手に負えない感情に満たされる。


「……なんてだ……」


 絞り出すように呟いた私の顔は、確かに赤いのだろう。腕に隠した下で、耳まで熱くて仕方なかった。


 思い返せば彼女は無茶をする娘だった。私に隠れて姿を変えて家を出入りしたり、山小屋まで追いかけてきたり、そう、あの時も私の前で人型になって……私を助けようとして、大怪我をして……無茶と言うなら、初めて人型に戻った時に、私の所に帰ってきた時だって–––




 私が感じていたのは、確かに絶望だった。


 だって、もう逃げられない。




『責任取って下さい!!』




 私の都合など全く考慮に入れないその言葉に対抗できる言い訳を、私は持っていないのだ。




 だけどその絶望は、雲ひとつない空に投げ出されたかのような爽快な絶望だった。


 そう、私はもう逃げられない。彼女を傷付けた罪悪感からも、また傷付けるかもしれない恐怖からも。私はもう、その懸念の向こう側にいるのだ。同じ事を繰り返さない事に、彼女を二度と傷付けない事に全力を尽くして生きる毎日が、たった今始まったのだ。




『こんなに好きにさせておいて–––』


 頭の中で繰り返される言葉に暴れる心臓を宥めるために、溜め息ではなく大きな深呼吸をひとつ。身を起こして、ハニーをしっかりと抱え上げてから立ち上がる。姿を二度も変えて衰弱した彼女を、早く介抱してやらなくては。私の手つきは始めの頃のようにおっかなびっくりではなく、慣れたものだ。


 顔を覗き込むと、薄っすらと目は開かれていた。しかし二度の変形で体力を相当消耗したのか、尻尾は振られていない。何故だか彼女も照れているような印象を受ける。


「……君に人生を変えられるのは、一体これが何度目だろうな……」


 私を孤独から救ってくれた。私に大切なものを守る喜びを教えてくれた。宿命に向き合わせてくれた。


 ひたむきな思いをぶつけてくれて、そして同じだけの思いを返す事を、可能にしてくれた。


 独り言のようにしみじみ語りかけて、さっきのお返しにと、口の端にいささか長いキスを落とす。この姿相手であれば、私もクリスティーナを相手にするよりはいくらか大胆になれるのかもしれない。


 そのまま毛皮に額を擦り付けて、思うままに頬擦りをする。顔を埋めて呟いた。


「約束するよ。君を二度と手離さない。」


 私は、新居で新しいソファーを買う事を決意する。




 私達には、きっと必要だから。

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